映画「祈り――サムシング・グレートとの対話」を観て

近年、海外では祈りの効果について科学的検証が着々と進み、人の思考の力が細胞や健康に明確な影響を与えることの裏づけを蓄えつつある。この映画は、有難い宗教的教えではなく、祈りのサイエンスを扱っている。残念ながら日本の学術業界はこの種のテーマを注意深く避けるが、最近は矢作直樹氏のように現役の医師で、『人は死なない』といった著作でスピリチュアリティを主題にする人も出てきている。映画に遺伝学者の村上和雄さんが出ると知って、何年も前、心と遺伝子のエキサイティングな話を聞きに行ったことを思い出し、いそいそと渋谷へ出かけた。

映画冒頭は、マザーテレサのスピーチ。自分に対して何が向かってこようともすべてに愛で返す。凡人には難しいことだけれど、その言葉を聞くだけで心洗われる時間。映画は、ドキュメンタリーの中に、村上和雄さんの子ども時代のエピソードや研究の裏話をドラマで織り交ぜ、心とからだの問題に科学的に迫るサイエンティストやジャーナリストなどが登場する。出てはこなかったがラリー・ドッシーの著書『祈る心は、治る心』からもいくつかの引用がなされていた。

一番好きなシーンは、子供の頃の村上さんが、おばあさんと対話するところだ。おこづかいもろくにくれないこのおばあさんは、村上少年に何にも勝る人生の極意を授けている。曰く、銀行にはふたつあって、地上銀行のほかに天国銀行というものがある。天国銀行は目には見えないけれど、誰かが困って本当に必要な時に、利息をつけておろしてくれる。だから天に貯金をしなさいと。

研究者時代、海外の研究者に先を越されて地団太を踏み大奮闘する村上さんを演じるのは北村有起哉。びっくりするほど大量の牛の脳みそを集めるために食肉業者に日参し、ただひたすらに頭を下げる。「私は頭を下げるのは一向に苦にならない。なぜならそれで物がタダでもらえるからだ」という心で粘る研究者に降参した業者から、なんとか脳みそをせしめる。研究室のスタッフが神妙な顔でひとつひとつ処理するシーンに「朝からホルモン屋の開業」とナレーションが流れる。物事をやさしい言葉で語り、ユーモアを忘れないのは、関西人のよさである。そして、行き詰まった村上さんに天からたっぷり利息のついた預金がおりてくるシーンもちゃんと登場して、観ている方はうれしくなる。

新薬の治験では、必ず偽薬(プラシーボ)と比較対照した実験を、医師にも患者にもその詳細を知らせない二重盲検法(ダブルブラインド)によって行い、薬効を確認するが、プラシーボに3割から5割の効果があることがすでにわかっている。メリケン粉やイワシの頭で病気が治るならば、副作用のある高い薬を使う必要は減るだろうにと思う。薬で安定を得る心理は理解できるが、使い続けることはやはり危険なことに思われる。

遺伝子に書かれている暗号は、「このような蛋白質をつくりなさい」という命令である。村上さん曰く、遺伝子のすごいところはそれが読む前にすでに書かれていたことである。誰が書いたのか? 人間であるはずがない。しかし科学者としてはそれを神仏とは言わず、「サムシング・グレート」と呼ぶことにした。人智を超えるできごとが自然の中では日々営まれている。大災害は、自然からの悲痛なメッセージであるかもしれない。人が自分のからだという内なる自然に背くことは病の原因になると、私も思う。

ほやほやアツアツのカップルに、1日4時間相手のことを思い続けて脳内の蛋白質を測定するという実験でも、祈りの効果がはっきりと数値で証明される。アメリカの東海岸から西海岸に向けて、重い心臓病の患者にも医者にも知らせないダブルブラインドで祈りを送った実験でも、祈られた患者によい効果があったというデータが得られ、祈りは空間をも超えることが証明される。映画に登場する細胞学者のブルース・リプトン氏は、人間のからだを楽器の音程を合わせる時に使う音叉にたとえ、体からネガティブな周波数が出ている時に細胞は病気になり、ポジティブな波動で細胞は健康になると述べた。高すぎる周波数はストレスを招き、ゆったりと低い周波数では心が落ち着くというのは、免疫学者の安保徹氏の主張するミトコンドリアのゆったりした世界に通じる。人の意識は環境にまで影響を及ぼすともいう。

柳瀬宏秀氏は、祈りは願いとは別のものであるとする。ただし、自分のエゴにより自分のほしいものを得ようとするだけの心の働きには、神様は乗ってはくれない。願いの「い」に神様が「乗る」と、それは祈りとなる。祈りは量ではない。地球上のごくわずかなパーセンテージの人の意識が変容するだけで、この世界にとてつもなく大きな変化が起きるという考え方に希望を感じる。

『フィールド』の著者リン・マクダガートの言葉が素敵だった。祈りの実験において、祈られた人によい効果があったと同時に、祈りを捧げた人にも心の平安と健康がもたらされたという。大切な人が苦しみの中にある時、何もできず祈るしかない時がある。自分ではどうしようもない状況に、思わずしぼり出すような深い祈りは聞き届けられるということだろうか。

  大きなことを成し遂げるために
  強さを与えてほしいと 神に求めたのに
  謙遜を学ぶように弱さを授かった

で始まる有名な「名もなき兵士の詩」が流れる。病や貧困や失敗を賜ったとて、願いはすべて聞き届けられ、祝福は与えられている。

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この作品で初めて知った監督の白鳥哲氏は、「ストーンエイジ」や「不食の時代」など話題作をつくり続ける人であるらしい。アップリンクをはじめとする渋谷の小さな映画館は、障害をもつ人や政治的主題を扱った少数派のための映画も積極的に上映してくれる。興行収入よりも伝え手としての責任を果たすことに重きを置いているかのようだ。こんな貴重な映画館が今後も存続してくれることを祈る人が多くなくても、その祈りには力が宿ると思いたい。

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ボディワーク考(1)――野口整体

ボディワークという言葉を始めて知ったのは昨年、ある武道雑誌の編集者とのやりとりの中だった。詳しい意味は知らないまま、からだの感覚を開くものというイメージから、ヨガや野口晴哉による活元運動や野口三千三の野口体操を自分で試したことがあり、野口体操と大いに関係があり演劇の訓練にも使われる竹内敏晴などを読んでいることを伝えた。

ボディワークは、1970年代以降のアメリカのニュー・エイジとよばれた一種のサブカルチャー台頭の頃に生まれたものだという。フェルデンクライス・メソッドとアレクサンダーの姿勢術、ロルフィングをあわせて三大ボディワークと呼ぶことが多い。その時は、フェルデンクライスとロシア武術のシステマの専門家の対談という大変面白い企画を手伝った。

野口整体には、二十歳前に出会った。父が経営する学習塾の卒業生が教えてくれたものらしい。体操が頭で指令を出すのとは違って、ちょっとした手続きによって自動運動を導き、頭や心はポカンとさせて、からだが勝手に動くにまかせる。そうするうちに本来のその人らしいからだに整っていく。実践していたその卒業生は車椅子の人だったが、「それをやっているだけで、乞食をしていてもいいくらい幸せ」だと言うのを聞いて驚き、人にそんな心境をもたらす運動とは何か、俄然興味をひかれた。

何冊も野口晴哉の本を読み、剣道をしている子どもが活元運動をしているうちに強くなった話や、人の傾向を12種に分けて観察した「体癖」などが面白くて夢中で読み、もちろん自分でやってみた。からだが勝手に整っていくという説は大いに気に入った。むずかしく言うと、錐体外路系*の運動ということになる。もっと訓練すれば、「愉気」といって、別の人によい気を注入して治すこともできる。

座位でみぞおちにぐっと両手を差し入れ邪気とともに息を吐き出すうちに、大あくびが出てくる。親指を握って頭を上に向けたまま、差し上げた両手に力を入れて肘を張っておろしつつ、息を吐く。ふつうは息を吐くことは脱力につながるが、わざと逆をやっておいて、一気に力を抜いてポカンとする。そこからは、首や肩がいろいろと動いたり、上体が旋回したりして、肩こりがよくなることが多いので、ちょいちょいやってみた。寝ている間に手足があちこちに動いて、緊張していた部分が知らないうちに緩むこの運動を便利なものと思いつつ、いつのまにかやらなくなっていた。

先日夜行バスの中で、突然派手な活元運動が出始めた。活元なんてほとんど忘れていたのに、ほどよい振動と暗闇(とても人前で見せられるものではない)のせいか、その日は顎がずいぶん動き、こんなところまで回るのかと思うほど首がいろいろな方向に動いた。ああこれは、明日の朝このあたりが楽になっているだろうなと、夢うつつに思って、眠ったような気もしなかったのに、朝が来るとすっきりして、気分も晴れわたり、いい一日になった。

からだは無意識の象徴である。生活の中でいろいろに溜めた緊張や我慢がどこかをこわばらせる。ひどくなると病気として治療することになるけれど、こんなふうに自分で自分を調整できれば、それほどひどいことにはならない。健康に暮らすのにはもってこいの方法だ。

野口晴哉は、小学校しか出ていないという経歴ながら独学で広範な研究をし、近衛文麿の長女をめとったノーブルな顔立ちの人である。『整体入門』や『風邪の効用』が前からちくま文庫にあり、今年は『体癖』も出た。人のからだの観察に子供の頃から才能を発揮し、その人がいつ死ぬなどと言い当てて、周囲を驚かせていたという。身体論の斎藤孝や整体の寺門琢己、片山洋二郎、三枝龍生などは、野口整体を学んでいる。

みているのは、エネルギーの方向と傾向である。体量配分計というものに乗り、上下左右前後のどこにウエイトがあるかを調べて、おおよそ12種類があるとした。読んでいると誰かの体癖を勝手に決めたくなったり、さりとて自分もあれこれあてはまり、と、いそがしく頭をめぐらすことになる。

それぞれの人にそれぞれの体の癖があり、よいも悪いもない。特定の方向に大量にエネルギーが向いている人は、変人にみえるかもしれないが、それがその人である。今はやりの発達障害の子などを、体癖の視点から見て、そのエネルギーの方向をみきわめ、上手に調整すれば、小さな頃から子供にレッテルを貼り、薬を飲ませることは防げるのに、と、思う。薬によらない治療はもっと研究されなければならない。

*錐体外路系……随意運動を伝達する脳の延髄にある錘体路に対し、無意識の運動系にあたる。野口は、「錐体外路系」を鍛えることを強調している。

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専門書のひとつのつくり方

はじめ医学系の学会誌など目にしたこともない頃は、編集にどんな特殊な能力を必要とするものかと思っていた。
知ってみれば、編集者の役割は、拍子抜けするほどシンブルな作業の繰り返しだった。

医学論文などの専門的な文章を構成する要素は、タイトル、著者名、所属、本文テキスト、表、図、写真、文献である。原稿を受け取ったらまず、原稿の枚数を数えてナンバリングし、図表、写真の数を確認し、本文中のどこにそれが登場するか、位置を確認する。文献は、その番号が本文中の引用箇所に右上の小さな肩つきとなって表示されるのが通常であるから、すべての文献が登場するか、順序が整っているか、などを確認。

論文誌であれば、たいていは、あらかじめ寸法やページのマージン(余白)、本文文字数や書体、見出しの書体やサイズが決まっているので、見出しを指定すればすむ。「判型」とよばれるサイズはB5判が多く、1段組みもしくは2段組みである。図表サイズをページいっぱい使うか、片段におさめるかなどを指示。テキストは、手順通りに用語(専門領域によって、定められた用語を用いることになっている)や用字(漢字が多いため副詞をひらがなにすることが多い)の統一を指示して整理し、英語のスペルの確認、文献を所定の形式に整理・指定すれば、材料をすべてページ組に回して、初校ゲラが出る。

書籍の場合は、企画段階から判型やページ数がおおよそ決まっている。1ページのマージンを決め、1行に何文字、1頁に何行入れるかで、ページあたりの文字数が決まる。見出し、本文テキストとも書体を決め、見出しランクによって、サイズに強弱をつけて指定する。図の制作を分業で進める場合は、判型が決定した段階で、図のサイズを決め、先に図を仕上げておく。出来上がった図を、写真サイズやトリミングの指定などと合わせ、本文テキストと一緒にページ組に回し、初校ゲラが出る。

初校が出たあとの校正は、たしかに煩雑な面もあるが、特別むずかしいかというと、根気強く文字を見て、慣れていけばよいだけの仕事である。もちろん慣れるためには量をこなす必要がある。

論文の場合、ひとつの論文の採用前には査読者という専門家が必ず通読し、問題があれば差し戻して修正している。このため編集に回った段階では、内容的に問題のない完全原稿になっているので、体裁だけ整えればよい。書籍の場合は、共著が多いので、必ず編者または監修者が目を通し、内容の妥当性に責任を持つことになっているが、編集作業が進んだ段階で修正が入ることがあるため、論文誌ほど単純ではない。また、編者によっては、あまりよくみないこともある。

医学系に限っていえば、編集者はほとんど文系である。よって、専門用語は、初心者にはもちろん難解にみえる。が、これも門前の小僧で、仕事をしているうちに自然と習い覚えるので、大問題とはいえない。

専門書の編集の問題は、別なところにあるように思う。

書き手が医師である時、原稿を直されることに抵抗が強いケースがある。編集者が、体裁のために入れた赤にすら、腹を立てる人がいる。専門家が書いたものに素人が手を入れるとは何ごとかという心理も働くのであろうが、よくみれば内容に赤を入れたのではないことは一目瞭然だが、点ひとつを直されただけで怒るのは、プライドが高いのではなく、その本をつくる目的や、安くはない対価を払って読んでくれる読者の存在を考えないことである。共著であるなら全体の構成や統一性は重要だし、商業出版である以上、読みやすいものにするのは当然のことだ。

編集者も馬鹿ではないのだから、相手が誰であれ、読んでいて矛盾や疑問を感じるところは指摘するのが仕事である。明らかな誤りに気づくことも多い。本当にプライドがあれば、あるいは編集者に専門家ほどの知識がないにせよ、編集の専門家であるとして多少なりとも敬意を払うならば、むしろ、自分の原稿をよくみてくれたことに対して感謝する、というのが常識ある大人の態度だと思う。

これが看護系の書籍になると、書き手が謙虚なのか客観的なのか、編集者の指摘に過剰に反応することは少なく、一緒にいいものをつくるという目的を共有できることが多い。編集者もその分勉強して、資料にあたったり、原稿の構成について提案をしたりできる。必要な労力は大きいが、このやり方で編集者はしっかりと専門知識を身につけることができ、より大きな貢献ができる。医学書の編集者でも、かなりしっかり調べる人は自分の知識が確実になるので、著者への指摘も的確で、話も早く、いい仕事ができるとして評価されているように思う。

体裁だけをきれいに整えるのが編集者の仕事だという考え方で本をつくると、たしかに制作スピードは上がる。が、誰がどのように内容に責任をもっているか、読者に配慮しているかはまた別の問題である。読者にとって価値あるものを提供することができているのかというチェック機能は、いかに専門書といえども編集の領分であると思う。

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「砂漠でサーモンフィッシング」@新橋文化

「イエメンの砂漠に鮭を放流せよ」――依頼を受けたイギリス人の水産学者は、即座に「Unfeasible(実行不能)」の返信メールを打ち、強調の副詞を付け加えた。Fundamentally unfeasible.「馬鹿も休み休み言え」の婉曲表現である。

政治的思惑がからみ、依頼人を訪ねる。待合室の椅子のユーモラスな動きにちょっとインパクトがある。会話の中で、鮭生存の水温やすでにダムが完成しているとの話から、「では理論的に可能なのですね」と念を押される。Theoretically possible.

ふたつの言葉にこの作品のテーマが象徴されている。できないと思われる事業の成功を信じ、挑戦する話である。国家プロジェクトになってしまうのだから、逃げるわけにもいかない。

突飛な仕事の発注主は、シャイフとよばれる富裕な資産家。鋭くノーブルな顔立ちの彼は、話す言葉も信念に満ちて力強い。カタブツ水産学者をシャイフに引き合わせるのは知的で情熱的なハリエット。戦地に赴いた恋人を案じ、彼女の美しい顔は曇っている。三人のディナーでグラスを合わせるカタブツの水産学者は、「Faith」よりむしろ「Science」に乾杯せずにいられない。半信半疑のユアン・マクレガー。煮詰まると池の魚に餌をちぎって与えるクセがあるこの男の名はサイモン。なぜかサーモンに似ている。

風景が素晴らしい。水のひと粒ひと粒がみえるような撮り方もおもしろかったし、こんなに鮭を繰り返しアップでみたのもはじめてだ。プロジェクト開始前、サイモンとハリエットが砂漠で話しているところに、頭上に甕をかかげた女が近づいて、ふたりに水をふるまうシーンが印象に残った。冷たくておいしい水。その水を飲んで、事業は開始された。

英国首相付のやり手広報官が終始計画通りに事を運ぼうとする。子供や夫のいる自宅で、エプロン姿で容赦なく指示を飛ばす。首相とのやりとりのLINE。案外こんな会話、あるのかも、と思わせる。

二つのカップルと仕事。涙。希望と失望。妨害と成功と失敗。そのあとにある救い。全編があたたかいユーモアに満ちて、笑顔のハッピーエンドである。

監督は、「マイライフ・アズアドッグ」「ギルバート・グレイプ」を撮ったラッセル・ハルストレム。脚本は、「フル・モンティ」「スラムドッグ$ミリオネア」のサイモン・ボーファイ。豪華チームによる見事な作品。ガード下の名画座では、電車の音もシブい効果音。

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「ラリー・ドッシー」と書いたメモ

もう何年も読みたい本が読めず、途中であきらめることが多かった。
疲れてばかりの毎日を無理にやり過ごす生活を変えてから、少しずつ好きなことを思い出し、大切な本を読み返せるようになると、どこかから昔書いたメモが出てきた。

何の本なのか資料なのか、ホリスティック医学で著名なラリー・ドッシーの文章の抜粋か要約か、記憶もないが哲学的で詩的な言葉が並ぶ。

***

時間は、非直線的なものであり、過去・現在・未来の区別に意味はない。
時間は、流れない。なぜなら自然界で論証できないから。
空間は、時間と切り離せない。
デカルトとニュートンに別れを告げよ。

世界の客観的記述→科学と歩調を合わせる必要→生と死は自然界の一部
→科学が自然界を語るには時間現象が含まれる→科学の言葉に耳を傾ける必要
→現代科学を偏向して採択してはならない→科学が示す見取り図全体を見つめる必要
→時間の概念を認めざるをえない。

科学的態度たらんと欲すれば、現代物理学が露わにした時間の本性を無視することはできない。

世界は起こらない。世界はただ存在するだけだ。

人の生命はONとOFFではない。

シナプスの間には、静かなささやきが、いつも続いている。

生命を扱う場合、量子的解釈をしないわけにはいかない。

不可解なのは、最初の症例が報告されるまで、この病気はいったいどこに身を隠していたのか、という点だ。

姿を隠していたのは病気ではなく、むしろ医者の知覚の方であった。

科学の歴史とは、科学的事実に適応しようとして常識が身をよじるプロセスの歴史に他ならない。

***

メモに導かれるように、つい先日、何年も読めずにいたラリー・ドッシーの『祈る心は、治る力』を読んだ。祈りは確かにひとつの力であること、祈りが科学的に研究されていることを知り、人の心が健康状態に及ぼす影響を改めて考えさせられた。悲観的に考えればどうしても健康は悪化するしかないからだ。

15年ほど前に観たクロード・ルルーシュの「男と女 嘘つきな関係」は、あまり知られていないかもしれないが、「男と女」の三作目で、非常に象徴的なテーマを扱っていた。実際に病気の人間と問題のない人間のデータをすり替え、健康な人間に「あなたは病気である」と伝えるのだ。ある女性医師のそれは昔の恋の復習なのだが、その言葉と思い込みが、徐々にその男を死に向かわせる。言葉と暗示による殺人である。

対照的に、本当は病気であったはずの男が、自分は病気ではなかったと思い込むことで、どんどん明るく元気になっていく。いかにもありそうな話で、怖くて洒落た映画だった。

昨年暮れに、『天使に会える日 あなたをたすける39のエンジェルたち』という本を読んだ。数年前にタイトルと表紙でなにげなく買って、頁を開いて著者がドイツの神父だと知った。「愛の天使」や「自由の天使」にはじまり、いろんな天使が登場するが、ショッキングだったのが「信念の天使」だ。

――信頼は、いま見えている以上のものを、見せる。……どんなことでも、表面だけでなく、その奥にある現実を見せるのだ。
 マリー・ルイーゼ・カシュニッツは、短編小説『天使の橋』で、この信頼について描いている。船主ジョヴァンニ・デ・マータの物語。……
 

このジョヴァンニは、捕虜を解放するために海賊に財産をすべてとられ、さらに船のマストや舵をこわされ、帆を引き裂かれる。しかし、彼が出航しようとすると、マストも舵も帆もない船が海上を走ったというのだ。

ありえないことのようだが、これに似たことをいくつか知っている。ふつうなら生きていられないほどの状態でも、生きたいという強い意志が人を生かすことがある。説明ができなくても、そのような不思議な力が「いのち」にはあると考えるしかない。

毎日元気に目が覚めて、食べ物がおいしかったり面白いものを見て笑えることが、しみじみと不思議に思われる。何でもない日々は無数の天使に守られているのだろう。

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素敵なNLP速習講座

書店でコーナーがあるほど注目されているNLP。心理学やコーチング、コミュニケーションに関心のある人なら、その正式名称が神経言語プログラミング(neuro-linguistic programming)だと知っているだろうか。

NLPはアメリカで開発されたコミュニケーション技術で、人間の無意識を意識化させることによって、思考や行動パターンを変更し、パフォーマンスの向上やコミュニケーションの円滑化をもたらす。開発者は、カリフォルニア大学のジョン・グリンダ―とリチャード・バンドラ―で、すぐれたパフォーマンスを生み出すことで知られる著名な心理療法家3名のコミュニケーションを徹底的に分析・研究し、体系化した。もともとは、1970年代初頭、ベトナム戦争の帰還兵の心の治療に素早い効果を上げたことから、一般に普及するようになった。

人間は、外界を視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚(体感)といった五感を通じて認知し、個々に内部処理したのち、行動という形でアウトプットしている。つまりインプットが脳(N)でなされ、内部処理として言語化(L)し、プログラミング(P)とよばれる行動につながる。たとえば、快晴の日を心地よく体感すれば、口には出さなくても「気持ちのいい日だな」と心で言葉にし、行動が積極的になる、といった具合に、三者は密接に関連している。

NLPの重要なキーワードに、「意識」と「無意識」がある。口癖、考え方、行動や生活習慣のかなりの部分が無意識の産物であり、得てして望まない「いまいちな日常」につながっているが、その無意識または潜在意識を、いったん意識の俎上に上らせ、新しい枠組みに再構成することが、成果やコミュニケーションにプラスの変化を生むという。

そもそも、現在無意識に行っている行動――それは寝る前の歯磨きや、自転車を漕ぐことでもいいが――も、はじめは意識して習い覚えたことである。新しく学んだことがいつしか無意識にできるようになることは、行動を機能的にし、疲れを減ずるメリットもあるが、悪しき生活習慣から脱却したい時など、無意識を点検することが必要になる。その作業として、五感や言葉を意識できるようトレーニングすることが大切になるのだ。

問題のパーツを一度取り出して、無意識と感情のコントロールにより修繕し、もう一度無意識下におさめると、格段に動きがよくなり、気分も上向き、いろんなことがいい方向に回りだすということか。いまいちな日常が劇的に変わって、女性など内面からきれいになる人もいるというのも、あながち嘘ではなさそうだ。

五感のうち、人によって得意分野が異なり、ビジュアルイメージに強い視覚派を「V(visual)」、聴覚にすぐれた人を「A(auditory)」、体感を重視する人を「K(kinesthetic)」などと呼んで分類するが、これは単に人それぞれに優位な感覚が異なるというだけの話である。が、このちがいが時に笑えない状況を生み、「相手をしっかりみつめて雄弁に語る」Vの上司のお小言を、Aの部下が「眼を閉じてじっくり真摯に受け止める」時、「なぜちゃんと聞かないのか」といったあらぬ誤解を呼ぶこともあるが、これは互いが暮らす世界の違いに気づかず、歩み寄りの努力ができなかったというだけのことである。このような状況を避けるためにも、相手に響きそうなものがVAKのどれであるか、日頃から注意して観察し、知る努力は欠かせない。

『交渉人』という映画を観たことのある人なら覚えているかもしれないが、相手の言葉が嘘か本当か、視線を解析して知ることができる。人の視線は、「昨夜食べたもの」など過去を想起する際は左に動き、未来や未知のもの、事実ではないものをイメージする際、右上に動く。これを活用して、オバマ大統領などプレゼンテーションにすぐれた人は、自分の子ども時代の話をする時、聴衆の視線が左に向くよう壇上での位置を変え、未来の希望を語る時、聴衆の視線を右に誘導する。お笑い芸人もメンタリストもこのようなことは勉強しているという。

潜在意識に、3つの特徴があるという話は、興味深かった。
 1.潜在意識には時制の概念がない → 過去を否定する人は、現在も否定していることになる
2.潜在意識には人称の概念がない → 他者の悪口を言う人は、自己を傷つけ、自尊心も低い
3.潜在意識にはものごとの大小の概念がない → 小さなことにも丁寧に向き合うことが大切
現在の自分が置かれている状況に感謝し、毎日を丁寧に生きることが、思い通りの状況を引き寄せることにつながるようである。

つらかった過去の記憶などもリフレーミングで書き換えて、現在を明るい、正常なものにできるのは、災害や事故を経験した人に有用だろう。組織やカウンセリングの現場で活用されるNLPによって人間関係や生活が楽しいものになれば素晴らしいが、「だからといってNLP信者になる必要はありません」という講師の言葉が、とても公平で好感がもてた。

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読みにくい文章(2)

何となく描写があって何となく感想が混じるような書き方も、読みにくい部類に入る。
たとえば、こんな文である。

「最近の若い女性はスタイルもよく、みんなおしゃれです。しかし顔色はあまりよくありません。生活リズムが不規則で食事をきちんととっていない人もいると推察されます。バランスよく栄養をとらないと、健康にもよくないし、精神状態も不安定になるのではないかと心配します。また、電車の中で化粧をする人がいます。美しくありません」

唐突な印象を受けるのは、どうも主語のせいではないかと思う。一見客観的な事実が書かれているようでありながら、主語が曖昧なため、どこまでが事実でどこからが意見か、わかりづらいのである。

書かれている事実もしくは観察は、
 ・若い女性はスタイルがよく、おしゃれだ
 ・バランスよく栄養をとらないことは、健康によくない
 ・電車の中で化粧をする人がいる
ということである。

おしゃれであったり顔色がよくなかったりするのが若い女性「みんな」であるとは限らないので、こういう場合は一般化せずに、「自分にはそう見える」「電車の中を見回して目に入った若い女性はみんな」と書けば、ケチがつけにくい。また、「なぜそう感じるか」も、ひとこと加えれば、違和感を減らす役に立つ。「いつも」「絶対」「必ず」などは、「本当にそうなのか」と突っ込まれやすい言葉なため、避けるか語尾で調節しておくと、これもケチがつけにくい。

書き手が「そうではないか」と推測しているのは、次の2点である。
  ・(若い女性の顔色がよくないのは)生活リズムが不規則で、食事をきちんととっていないためでは?
  ・(栄養バランスが悪いと)精神状態も不安定になるのでは?

顔色が悪くみえる若い女性が、栄養バランスが悪いのか、恋や仕事に悩んでいるのかは不明である。またここで「推察」という言葉を使うと、レポートのような硬くて冷たい感じになる。さらに、食事と精神状態はまったく無関係とはいえないだろうが、精神状態を決める条件に、「栄養バランス」と、その前の文にある「生活リズム」も含めているとすると、文の切り方がいまひとつである。

よく子どもの作文に、「きょう楽しかったのは、みんなでお弁当をもって公園に行って一緒に食べたことが楽しかったです」といった、途中で主語を置き忘れてきたようなのがあるが、この文章もそれに近い。はじめのほうのバランスよく栄養をとっていないのは「若い女性」なのに、いつのまにか尻尾の方で心配するのは書き手になっている。

書き手の意見は、
  ・精神状態が不安定になるのではないか
  ・(電車内で化粧をすることは)美しくない
に表れているが、そもそも何が言いたくて、こんな文章を書いたのだろうか。

紀行文や自然の描写、あるいは心に思うよしなしごとが書かれているなら、読む人もそういうものと思って自然に読めるが、ここで挙げた例文は、何となく書き手にメッセージがあると感じるだけに、「この人の言いたいことは何?」という疑問が読み手に残る。

たとえば、「おしゃれやメイクが上手でも、真の美しさのためには心やからだの健康が大切」ということが言いたいのであれば、少し言葉を足すだけでぐっと親切になる。

「毎朝電車でみかける若い女性は、みんなスタイルがよく、おしゃれも上手です。しかし気のせいかどの人も顔色はあまりよくありません。もしかして残業続きで睡眠不足なのでしょうか。それとも食事をつくるのも面倒で朝ごはん抜きなのでしょうか。

少々忙しくても、バランスよく栄養をとっていれば健康は保てますし、イライラすることもありません。生活リズムが乱れると、精神状態が不安定になることもありますから、若いとはいえ気をつけてほしいところです。

また、きれいな服を着て電車の中で化粧をする人も、最近は珍しくない光景ですが、だらしない印象で感心しません。どこかで読んだのですが、『電車で化粧する女性はブスが多い』なんてシビアな意見もあるほどです。

きれいでいたければ、外見より中身、それも食事や睡眠を大事にしたほうが近道だと私は思います。そして、もっときれいになるためのお化粧も、きれいな人にかぎって人前ではしないもののようです」

こう書けば、なぜ栄養や精神状態のことを言うのか、読んでいてよくわかる。「心配だ」と書かなくても、書き手の若い女性に対する心配や愛情もはっきり読み取れる。「推察」するに、おそらく、こういうことが言いたい文なのではないか(「推察」という言葉も、受け身にしなければ硬すぎない)。

書いてみてから、その言葉を並べただけで十分かどうか、自分の言いたいことが読み手に伝わるか、わかりにくいとしたらどの部分か、少し想像してみるだけで、間を埋める言葉を思いつくのではないかと思う。推敲は、わかりやすくするための作業である。

文章はパズルかパッチワークのようなものである。いくらでも切ったり貼ったりすればよい。

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読みにくい文章(1)

「いい文章とは何か」と聞かれたら、私なら、第一に、わかりやすいこと、第二に、その人らしいことを挙げる。できれば第三に、読む人が困らないような配慮がなされていればなお素晴らしい。

上手か下手かは、感じ方も好みも人それぞれだから、正直よくわからない。書きなれたなめらかな文章でも、何となく内容に乏しかったり気取っていたりするものは、あまり好きではないし、上手くなくても正直に一生懸命に書かれているものには、読んでみたいと思わせる魅力がある。

中学生の時、ちょっと不良がかって優等生ではなかったN君が卒業文集に、「さぼってばかりの僕に、勉強を教えてくれて、みんな、有難う」という文を寄せた。つっぱりの彼がこんなに素直に人に礼を述べたことに驚き、とても嬉しくなったのを覚えている。口では照れくさくて言えないことを文字にするのも、勇気がいっただろうけど、意外な彼の一面を冷やかす人は誰もいなかった。

昔、注意欠陥・多動性障害の翻訳書をつくって、若い女性読者から届いた長文の手紙も忘れられない。子どもの頃からの悩みや大人たちへの憤り、冷静な観察など、注意欠陥などと呼ぶのは失礼なほど、しっかり書き込まれていた。一通の手紙を書くのに何日もかかったためか、途中でトーンが変わったりはしたが、その本を読んでいかに自分が心を動かされたかを知らされることは、作り手への何よりのご褒美だった。返信で彼女の住まいの近くにある患者会を紹介したが、あのあとそこへ行っただろうか。

いまどきのブログや手紙は別として、読んで違和感があるのは、話し言葉と書き言葉が混ざっているような文章である。内容が少し硬いものに、「ガッツリ」とあったり、「なので」で始まっていたりするのは、やはりちょっとしまらない。手を入れることはできても、本人が自覚しない以上、直してもらいづらい種類のくせである。

その文章を読んだ人が、まちがいなく理解してくれるかどうかに細心の注意を払って書かれた文章は、たいてい名文である。教育的なものは、そのような人に書いてほしいと思う。昨年亡くなられた解剖学者の藤田恒夫先生(新潟大・名誉教授)は、まさに名人だった。解剖の入門書が何十年も売れ続けているのは、エッセイストクラブに属するほどの文章力だけでなく、いかにして知識のない人にわからせるかに心を注がれた教育者としての姿勢ゆえである。

先生の入れる赤字の目的はいつもただひとつしかなかった。その修正をほどこしたことによって、読者がより明確にその内容を理解できるような赤しか入れない。その文章を読む人に、「必ずこの道筋をたどってきなさいよ」と、ガイドするような懇切丁寧な文章である。

ほんの少し言葉を補ったり、削ったりするだけで、みちがえるほど文章がわかりやすくなるのを間近に見るのは、新鮮な驚きでもあり、贅沢な勉強であった。
「文章は、すみずみまでわからなければなりません」
とおっしゃる先生は、ある時書いた私の比喩を、「おもしろいがわかりにくい」というひとことで、遠慮なく却下した。そんな先生にほめられた時は、天にも昇るほど嬉しかった。

読みにくい文章の代表は、よく意味のわからないカタカナの多用である。
――コミットする
――イノベーションを果たす(この動詞も少しおかしい)
どうしてもその言葉を使うのであれば、前後に少し説明を補うか、日本語も併記すれば、読む人にストレスがない。
――地域の活動に参加し、しっかりと人々に関わる、つまりコミットすることだ。
――技術や思考に革新(イノベーション) が必要となる。
などという具合である。

文頭にあまり多用しないほうがよいと思われるのは、
――言うまでもないことだが、
――何が言いたいかと言うと、
――取り立てて言うほどではないが、
次の文にスッと入ったほうがすっきりする。

書くことや話すことが得意な人は限られていると思うが、人に何かを伝える時、予想外の誤解が生まれる場合があるので、できる範囲で丁寧に書くに越したことはない。

英語圏の一流の科学者は、スピーチの際、こんな前置きをするという。
「私の話したことをあなたが理解できなければ、それは私の責任です」
謙虚とも見えるが、何が何でも自分の伝えたいことを、まちがいなく伝えたいという強い願望ともいえる。
「俺様の話を有難く聞くがよい。理解できないのはお前の責任だ」
という態度の人に、聞かせたい言葉である。

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本より前にカラオケを

土曜日、本づくりの打ち合わせで関西へ。書き溜めた原稿をまとめるにあたって、真っ先に確認したいのはやはり、その方が「何が好きか」ということ。好きな花は何か、好きな食べ物は何か。要は、どんな方なのかを詳しく知りたいのである。

本のつくり方は、ジャンルによって天と地ほどもちがう。商業出版の場合、何かのタイミングに合わせた出版であったり、学術系出版物では著者の数がやたらと多かったり、手のかけ方も編集者の役割も発行までのスピードも、あまりにもちがう。そういうわけで、ひと口に出版だの編集だのと言っても、同じイメージを共有できていないことのほうが多いかもしれない。

誰が書くか、書いた内容に責任をもつのは誰か、内容に対して問い合わせが予想されるかなどを考えると、編集者が細かな疑問を呈してはかえってスムーズに行かないジャンルも一部にあり、まさにケースバイケースである。時々のニーズに合わせて根気よく取り組むのだけは、おそらく共通している。

そこへ行くと、自費出版は、あくまで本を出す人が主役だから、その人が満足することが何より大事になる。「そんなにこだわりません」という人もいるかもしれないが、せっかく時間とお金を使うなら、「作ってよかった」と満足できるものにしなければならない。本のイメージにその人らしさが出ていてほしい。そうでなければ意味がないとも思う。

そこで、好きな色を聞いた。以前から存じ上げているその方は、鮮やかな赤が似合う。あまり地味な本にはしたくない。持参したipadで、いろんな色を見ながら、イメージを確認する。そういえば、と言って、気に入りの洋服などもってきてくれる。ビビッドな色。どちらかというと、暖色。内容は専門の話題ながら、誰が読んでも楽しめるもの。ここはひとつ、おしゃれな装丁にしたいところ。考えるだけで、わくわくしてくる。

話しているうちに、夕食時になり、一緒に食事をとったあと、なんとカラオケへ!
歌の好きな人だと、はじめて知った。そして、すこぶる美声。越路吹雪を何曲も続けて歌ったあと、松田聖子、キャンディーズ、ユーミンと懐かしい曲を一緒に歌った。こんな素顔を見せてもらえるのはなんとも楽しい。そして重要な情報でもある。

帰宅してから、何となく音楽が聴きたくなって、布施明のCDを聴きながら眠る。母を連れて何度かコンサートに行ったことがあった。昔の曲は、今ふうの「君と僕」しか出てこない歌とちがって、ストーリーがあって素敵だった。

世界的な美女オリビア・ハッセーとの結婚やアメリカでの歌手活動など、普通の人にはない経験をしたはずなのに、苦労話ゼロであっさりしているのは東京っ子(府中だけど)らしい。悪ノリして「君は薔薇より美しい」を、大きな扇子を振り回して踊りながら歌ったり、妙なひとり芝居を含む演出も毎回楽しい。しかし還暦すぎてもよほどトレーニングをしているらしく、カンツォーネ歌手ばりの「Time to Say Good-Bye」など、決めるところは決めてくれる。

誰かの好きなものを知ることは、自分の好きなものを思い出させてくれる。
あとで、「実は聖子ちゃんより明菜派なので、次回は明菜ちゃんを歌いましょう!」とメールが来ていた。
次にお会いするのが楽しみである。

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スピリチュアルと病気

本をあまり読まなかった学生の頃、たまたま手にとった文字の少ない本がテネシー・ウィリアムズやモリエールだったことから、演劇に興味をもつようになった。

「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉を美しいと思うような年頃に、「人はパンとスープで生きるのだ」と断定するモリエールのリアリズムは明解で、スカッとした。「病は気から」という喜劇には、これといった原因もないのに、自分を病気だと信じきって、ありとあらゆる部分に悪いところを見つけ、これでもか、と治療をほどこす趣味の男が登場する。彼なりの「健康」に近づこうとする意志と努力は涙ぐましいが、読者や観客には、どう見ても嬉々として病人であり続けようとする矛盾が喜劇と映る。たしかに自分の病気を表明することには、ある種の責任を免除されたり、何かを回避できるメリットがある。病気の問屋のような人に会ったことがあるが、よく似た感じの人だった。

若者ならともかく、何十年も使い続けたからだは、さびついて当然である。むしろネジの何本かポロッとなくしても、動きの悪い部分があっても、それなりにやっていけるし、実際、多少の不具合のなかでも、きげんよく暮らせる。差し迫った状況でないのなら、「だましだまし」悪いところとつきあいつつ、不具合調整のための薬や治療は、ほどほどにするのがよいように思われる。

昔、高齢で癌に侵されていたにもかかわらず、生き生きと舞台を駆け回った宇野重吉の姿をテレビで観たことがある。やせほそったサミー・デイビス・Jrが、十八番の「ミスター・ボージャングル」を歌いながら、グレゴリー・ハインツとともにタップを踏んだのも観た。立つこともできないほどの苦痛の中で、なぜ、そんなことができるのだろう。

生きることへの意志や、その場で自分にできることをするために動こうとする――そのようなエネルギーの働きを、「スピリット」とよぶのだと思う。Vital forceという英訳もあるほどだ。そんなスピリットが、人間に自らを癒す力を与え、肉体や精神を統治する。よって心ある医師は必要に応じ、科学的診断に加えて「魂」「スピリチュアル」という面を治療の中に含めないわけにはいかないのだろう。その人が本来もっているエネルギーを生き生きと発揮できる方向に導けば、心もからだも、あるべき自然の姿におさまるという健康な状態を取り戻せることが、彼らにはわかっているのである。

「癒し」という言葉と同様、「スピリチュアル」という言葉のはやり方が少しズレていて、気持ちが悪い。「スピリットはエネルギーであり、自らを癒し生かすものである」――こんな定義をしてみたい気がする。

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