「即興劇」初体験@下北沢

ぼんやりしているうちに、二か月以上も経ってしまったが、どうしても書き留めておかなければならない。

10月15日、楽しみにしていたインプロ・ワークスの「即興を遊ぼう会」に初めて参加した。

即興劇は、清水博先生の「場の理論」の重要な要素である。
「人生という場で、誰もが筋書きのない即興劇を演じている」という言葉は、歌詞か台詞のように聞こえ、実際に「即興劇」を体験できるらしいと知って、自分にもその機会があれば、と、興味をもった。何の気なしに検索したところ、十日後に「即興を遊ぼう会」があるとわかり、いそいそと申し込んだ。

下北沢は、つい2週間前にダーウィンルームを訪れたばかり。よく芝居や映画を観に来た大好き街だ。劇団の稽古場のような場所。渡されたガムテープに、好きな自分の呼び名を書き、胸に貼る。はじめに簡単な自己紹介。口慣らし。くちびるをブルブル、巻き舌。頰に力が入っているとできないらしく、どちらもまったくできず。鼻に声を響かせる。その日のテーマは、「音楽とインプロ即興で歌っちゃいますか!」。即興劇自体が初めてなのに、できるのかしらと、ドキドキする。

輪になって、ひとつずつ、隣の人に拍手を送っていく。逆回し。変則リズム。来た人に返してもいい。裏で拍子をとる。各自が いろんなリズムを鳴らして、みんなで真似する。これだけでも十分楽しく、前に場の研究所で贄川治樹さんが教えてくださったリズムセラピーを思い出した。

名前を呼び合う。自分を指差しながら、自分の名前を2回言って、誰かの名前を2回。これをどんどん回して行く。視覚障害者のガイドになる時も、こうして相手の声と名前を覚えるゲームがあった。慣れたら、声を出している人以外は、「ウッホッ、ウッホッ」を言い続ける。もっと慣れたら、声を出している人の両隣は、「ティキティキティキティキ」を身ぶりをつけて言わなければならない。状況をパッと把握して出す台詞を変えて、自分の番になると、誰かを呼ぶ。人の名前も自分のすることもだんだんわからなくなって、みんな失敗しだすのが面白い。

次は、みんなで連想ゲーム。考えみれば、大人になってから、こんなことはしたことがなかった。いろんな思いがけない単語が次から次へと繰り出される。「ネオン」と言われ、酸素・窒素の業界にいた私は、希ガス(レアガス)と思って、口から出た言葉が「ヘリウムガス」。ぎょっとされたが、自分の中でイメージがつながっているから、何を言おうと全部正解。四人に分かれてまた連想ゲーム。

その次は、三人組で、これまたへんてこなお題で即興の物語を作り上げる。一人が指揮者で、話す人を指名して、好きなところでどんどんスイッチする。それに合わせ、話の途中でも相手のお尻を受け取って続けていかなければならない。お手本は、「怒りっぽいコアラ」。腕に覚えのある方のはちゃんとお芝居になっていて引き込まれる。そのあとは「不思議な〇〇」とか、どこかの国のできごとなどとして、お話をつくった。私が指揮者の番の時、好きな国を決めてよいというので、大好きなエリナー・ファージョンの『ガラスの靴』から、ダレシラヌ国をチョイス。

そして、いよいよお歌の時間!
今日は、即興で歌ってしまうというので、ピアニストのぼっこさんが、ポロンポロンと持参のピアノを弾いてくれる。この方がいなければ、即興で歌なんてつくれない。みごとなガイド、素晴らしいメロディ。この演奏がそもそも即興なのだ。

まず先生の絹川友梨さんが歌ったメロディーをみんなで繰り返す。順番に短いフレーズを歌う。次に少し長いメロディー。 2人組に分かれて、演歌を一曲やってみる。ピアノが上手だからか、なぜだか不思議とそれらしい曲を歌えている。それとも、自分では忘れているメロディが、ちゃんとどこかにしまわれていたということか。

そして、次はみんなで。即興の作詞作曲。友梨さんの目に入った壁のシールから、最初のお題は、「水漏れ」。ここに、思いがけず、壮大な水漏れストーリーが繰り広げられる。誰も指示しないのに、ちゃんと展開させる人、オチをつける人がいて、物語になっている。場が共有されると、こういうことになるしい。

お題は、へんなものほど盛り上がる。趣味に変な形容詞をつけて、「地獄のウォーキング」「ハワイの恋」。なぜかみんなそれらしい節と歌詞で歌えてしまう。ハワイ組は、波のようなダンスまで無意識に揃っている。インプロとは、互いのリズムが同調するものなり。

次は4人で歌う。
演歌の「涙のポテサラ」
ちょうどカレーフェスをやっていたので、「カレー」
ボサノバで「ハロウィン」
ロックで「炎の編み物」

2人組になって、
「高尾の恋」(見ているほうもちょっとドキドキ)
「初めての手術」(2人とも丈の長い白のアウターで白衣に見えた)
「少林寺拳法の試合前控え室」(キャラクターのコントラスト、微妙なせめぎあい)
「小姑と嫁」(うちの味じゃないわ、と、言われ、醤油と味醂を肉じゃがに足す嫁)
「お弁当屋さん」(私たちのもの。パートナーに助けられ、要領の悪すぎるおばさんを地で演じる)
「家庭教師との不倫」(リアルに盛り上がる危険な関係。女性がサチコさんなのに終始ミチコさんと呼んでいたのはなぜ?)
フルムーンで初めての海外旅行(やさしい旦那さんとやりくり上手の奥さん。行き先は最後までわからなかった)

ぼっこさんのピアノに導かれ、面白いくらいいくらでもストーリーが出てくる。

体験してみて、わかったことが二つあった。

一つ目は、即興劇は、ひとりでしなくてもよいということ。同じ「場」にいる人とのやりとりの中で、自分でも思いもよらず、内側から湧き上ってくる言葉を通じて、生き生きとストーリーが展開していく。しかも、ひとりひとりの個性を際立たせながらの場の共有がある。白身をつないで、あくまでも黄身を大事にできる世界。協力しない人は誰もいない。

二つ目は、誰ひとりとして即興劇ができない人はいないということ。どんなに自信がなくて心が弱っていても、自分自身ですら知らない力が自分にはまちがいなくある。不正解はなし。なんでもあり。苦労して絞り出すものかと思っていたが、湧いてくる井戸がみんなの中にあることがわかった。

雑談の中で、実はニセモノのインプロが出回っていて困るなどの話も聞いた。ホンモノのインプロを体験できた幸せに、元気いっぱい帰路についた。

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読みにくい文章(4)――「なので」「ですので」

はじめて、「ですので」という言葉を耳にしたのは、23年前のことである。

割合大人数の前で改まって話す時だった。ぎょっとしたが、その人は、ちょっと日本語のおかしい人だと思っていたので、方言か何かだろうと深くは考えず、「おかしな言葉づかい」と思っただけだった。どうして「ですから」を使わないのだろう、と不思議だった。本に書いてある言葉は、フォーマルな場で使っていいはずだ。まさか、「ですから」を知らないなどということがあるとは、思ってもみなかった。

「なので」は、おそらく学生言葉である。同世代の友人がいつからか、「なにげに」「さりげに」「よさげ」などと言うのを、はしゃいだ若者言葉のように感じて聞き苦しく思っていたら、自分よりずっと年上の先生が「なので」と言い出すようになった。学校という特殊事情から、学生言葉が大人に感染する例である。ただ、仮に口でそう話したとしても、書くときに書き言葉を使えば、その人は、わかった上でそうしていることになる。問題は、何もかもよくわからなくなっていることだ。

ブログやSNSで、誰でも自分の言いたいことが簡単に言えるようになった。そのせいで、書き言葉と話し言葉の区別もつかない妙な文体がまかり通るようになって、個人的な日記ならまだしも、出版物の原稿にまで、その影響が及んでいる。

書き手の年代のせいか、「みんなのすることに合わせよう」という安直な考えのせいかはわからない。しかし、もう十年以上前に、大学関係者が、口語文のような原稿を提出してきたときには、正直、呆れて、全面的に書き直さざるをえなかった。出版社の良識が疑われては困る。留学経験のある優秀な人とのことだったが、中身も文体と似たりよったりだった。それで、留学しても、もしかしたら論理力は向上しないのではないか、と疑うに至った。

話し言葉であっても、「ですので」は、やはりおかしいと思う。まして、いくら肩のこらないフランクな文体でも、書き言葉にそれを使うのには、がっかりさせられる。語り口のやさしさは、だらしなくゆるんでいるということとはちがう。

流行っていれば何でも正しいわけではない。

旧かなづかいの「づつ」(昭和一桁でもないのに、なぜ「ずつ」と書かないのだろう)を使うくせに、「気ずく」(「気がつく」ことなので、「ず」はありえない)と書く。若いとはいえない人が、「うっとおしい」と書き、「とうり」と書く。いずれも、「鬱陶しい」「通り」という漢字があるのだから、いつどこで何を間違うのだか、よくわからないけれど、やはり驚き、がっかりする文字使いだ。

ハードルが下がったから何でも好きに書いてよいのではない。

書くのなら、辞書をひいて確かめることを習慣づけるよう、せめて小学校の国語で教えないのだろうか。世は、何でもペラペラしゃべるのがよいとされる。しかし、英語でも、しゃべる以前に書く力が必要なはずだ。相手は言わないけれど、その人の英語のレベルに応じた反応しかしてもらえないと、通訳の人が書いていた。つまり、「それなり」ということである。

『声に出して読みたい日本語』という大変ユニークな本がヒットした際、「あんなの、あるものを並べただけじゃないか」と、自称読者家でインテリの男性が言った。母国語の音への無関心に驚いた(耳の悪そうな無神経な話し方の人だった)。そして、タイトルに「読みたい」がついているのは、採られている文章が、多くの人に読まれるべき名文だからだと気づかないとは、インテリの前に「えせ」の二文字をつけてあげたいとも思った。

耳で聞いて、からだで覚える。そういうリズムが身についていないから、平気で「ですので」と話し、書く大人が出来上がる。確認してみないとわからないが、日本語を学ぶ外国人に、おそらく「ですので」などという表現は教えていないと思う。

ほかにも、流行っているからそういうものだと、40歳を過ぎた自覚的インテリが、妙な言葉づかい、文字使いをして悦に入っているのをよくSNSで見かける。挙げればきりがないが、嫌いな言葉は使わないし、そんな言葉を使う人もどうかと思う。テレビや漫画やネットの影響も大きいだろう。どうしても受け付けないのは「夜ご飯」。舌足らずで何とも気持ちの悪い響きだ。この言葉を使うかどうかで、おおよその年代がわかる。

いくら本を読んでいる人でも、言葉づかいひとつで値打ちが下がるのは、書籍の誤植と同じである。英語にばかり目が向いて国語を大切にしない日本。国際的であることがそれほど大事ならば、世界には、たとえ少数派でも、いろんな言葉がや文化があることにもっと目を向けるべきだ。

そしてその前に、日本語の表現そのものに、ほんの少しだけ興味をもつことだ。

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SNS考

3年ほど前、「Facebookってなあに?」と尋ねた時、ある人が「壁新聞みたいなものじゃないかな」と教えてくれた。

日常で遭遇した小さな事件や笑えるネタを友達とシェアしたり、美しい写真を貼り出すのは楽しいことだ。遠くに住む友達や家族に近況を知らせるのにも役立つ。ビジネスに結びつくファンづくりに上手に活用している人もあり、人気のある人の投稿はやはり魅力があり、節度が感じられる。親しい友人の投稿のように、その人の人柄や好きな物が自然と出ているものも好ましい。

反面、タイムラインに流れてくる一部の情報に、幼児性や過剰な自己表現を感じるものには、共感しにくい。思い入れの強すぎる言葉遣いをする人に、百人もの人が「いいね!」を押しているのも不思議だ。そんな学級委員みたいな言動がウケるのか、と知ることはできるが、どんなに人柄がよくても情緒過多の人は勘弁である。いい年の大人が嬉々として2ちゃんねるやJK風の言葉づかいをするのも好きではない。還暦を過ぎてもその言葉と絵文字を死守するのだろうか。

人は、使う言葉によって自分が所属する集団の種類を示したがるようだ。気づき、学び、ご縁、感謝、最幸、心友などを好んで使う人は、禿同やワロタを常用する人とよく似ている。言葉と話す内容は大きく関連するから、そのキーワードを嗅ぎつけて同じ種類の人が集まる。好きな言葉、嫌いな言葉は、人それぞれではあるけれど、文字だけでいろんなことが想像できる。詐欺師の才能でもない限り、中身が言葉に表れて隠せないのが人間の面白いところだ。

Facebookもひとつの場である。その場を介してリアルでも交流し、深まる関係もあれば、深まらない関係もある。結局のところ、ちゃんと話してみたいと思う人としか、内容のある話はできないのだ。

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「言ってはいけない」

小さな子ども相手ならまだしも、誰かに何かを話した時に、「わかりましたか?」と念を押すのは無駄なことだ。そう前に聞いた。4、5年前、ヘルスリテラシーについて、聖路加大学の中山和弘先生のお話を聴いていた時のことだ。

リテラシーという言葉は、読み書き能力を指しており、おおまかに「ある情報を整理して理解し、利用する能力」をいう。頭にメディアがついたり、医療や健康、ネットなどの言葉がつくと、その分野についての情報活用能力という意味になる。

ヘルスリテラシーという概念は、健康についてのさまざまな情報を理解した上で、自分で「健康を決める力」と説明される。アメリカで生まれたもので、いろんな人種や教育レベルの人への啓発も含め、ヘルスプロモーションの重要な概念である。リテラシーが、教養や知性と近い概念だとすると、まったく不案内な分野について、よほど噛み砕いて説明しなければ理解が難しい人がいても不思議はない。

背景がちがうことは、その人の責任ということにならない。それに、どんなに役立つ情報であれ、いろいろな事情によって、すべての人がそれにアクセスできるとも限らない。そんなわけで、一度や二度の説明で、相手がわかったかどうかを無邪気に尋ねることの軽率さが指摘されたのだった。

「わかりましたか」と聞かれれば、「いいえ」とはなかなか言いにくい。「わからない」と言うのは失礼な気がするし、あえてそう言うのには勇気を必要とする。めぐりの悪い奴だと思われたり、その人の気分を害したりしたくない。よって、「わかりましたか」という質問は、意図せずして、相手に「イエス」を強要する質問となる場合が多い。

人に対して何かを伝える時は、なんとか相手に自分のメッセージが届くように、できるだけの努力をして、わかりやすくする以外にない。顔を見ていれば、相手の表情や気配から読み取ることもできるが、文字だけで伝える場合、少しでもわかりにくくないか、誤解を与えないか、じっくり考えて書くに越したことはない。

昔、藤田恒夫先生が、「文章というものはすみずみまでわからなければならない」と言って、「面白い表現だけど、削りましょう」と、私の文章に手を入れてくださった。インタビュー記事の文末の(笑)などは、必ず削除された。すみずみまで配慮した文章に、よけいなものはいらないのだった。

「みなさんおできになります」も、聞きようによっては微妙な言葉だ。ニュアンスとして、「だからあなたも大丈夫」、「なのにあなたはなぜ」の二通りあり、自分が思うようにできていない場合は、励ましではなく苦情めいて聞こえる。言われる人の気持ちを考えれば、人に注意することはなんとも難しい。相手にすれば、思ってもみない指摘であるかもしれないからだ。

わかりの悪い相手に、「何度も申し上げておりますように」と言ったことがある。いい加減うんざりしていたにせよ、言う必要のない言葉だった。もしその人が、人の話をすぐに忘れたり、どうしても理解できない人だとしたら、残酷なことだし、「どうもそうらしい」と気づいていながら、別のアプローチをしなかったことは、こちらの怠慢である。

認知症の母親との交流を描いた映画「ペコロスの母に会いに行く」を撮った森崎東監督が、自身も認知症だったことをドキュメンタリー番組で知った。スタッフは、言う必要のない言葉を言わず、監督の足りない言葉を想像して理解し、辛抱強く制作に携わったのだ。

9月に京都教育大学の社会言語科学学会で拝聴した井出祥子先生の講演録音を聴きながら、なんとすみずみまで配慮され、多くの人にしっかり伝わるお話ぶりかと、感心ばかりしている。書く時だけでなく、話す時も、こんなふうに、子供からお年寄りにまでわかるような伝え方を、できるできないは別として、せめて心に留めておかなければと思う。

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『オートメーション・バカ』を読んで

パソコンの高度な使い方ができないせいか、過剰にデジタルをよしとする風潮に抵抗がある。昔勤めていた小さな新聞社では、「記事は手書きだ」というボスのもと、各種悪筆を解読する能力が身についた。「これは〇〇さんの字」と瞬時に知り、その性格を推測したりするのは、楽しい作業でもあった。修正の便利さから、私だけはワープロで書くこともあったが、縦書きの原稿は、やはり手書きで原稿用紙のマス目を埋めた。

先日ある方と、「iPadに千冊分の書籍データが入る」と話していた際、その方の知人のアメリカ人が、便利そうに検索などしてそれを実演してくれ、ポロッと、「こうして人はちゃんと本を読まなくなるのですね」と言ったと聞いた。Kindleを使ったことはないが、内容がその形態を受け付けないものもありそうに思え、どうしても紙の本を選ぶ。手書きで書かれた葉書きや手紙も、やはり嬉しいものである。

本書に書かれていることをひとことでまとめれば、「オートメーションの便利さが、深い部分での人間のスキル低下を招いていることに注意せよ」ということになるだろうか。著者のニコラス・G・カーには、『ネット・バカ』の前著もある。文字通り、技術が進歩して、人間がバカになるとしたら、警鐘を鳴らさないわけにはいかないだろう。

スキルが低下すると、想定外の事態に自力で対応する能力が失われる。ここに、2009年、コルガン・エアのバッファローでの航空機墜落事故(パイロットが適切に対処できなかった)や、2008年の金融メルトダウン(高速処理に長けたコンピュータがリスクの計算間違いをして、それがさらに加速された)などの見過ごせない事態が、証拠として挙げられる。

そのほか、医療においては、患者と医師の間がコンピュータ画面で遮断されること、システムに組み込まれたオプションの機能による医療費の増加がみられ、建築設計の分野では、手書きのドローイングをおろそかにした結果の創造性の減少などの例が述べられる。医療の現場では、データや検査数値が、目の前の患者の状態把握をかえって間接的にする面もあると聞く。手も触れず会話もかわさず、数値だけで診断するなら、医師は必要ないし、数値が正常でも、本人の具合が悪ければ、そちらを重んじるのが本当だ。

人間は、こつこつと地道な訓練を積み重ねると、その作業が無意識に自動的にできるようになる。そのように人間に備わるオートメーションを暗黙知とよぶ。人間の深い部分の暗黙知が、オートメーションの外在化によって、育つ機会を失うのは怖いことである。外部のオートメーションに依存することは、さまざまな分野で専門家のスキルと知識を侵食し、単に「モニタリングをする人」に変質させている。コンピュータ・トレーディング・システムが、金融市場をよりリスキーなものにしているという論文も、2013年に出たという。

「期待されたコスト低下はむしろ達成されなかった」という記述から、自分の過去の経験を思い出した。

今から20年近く前、出版社に、次々とパソコンによるDTP(desktop publishing)システムが導入され、従来印刷所にまかせていたページ組み作業やイラスト作成を内製化できるようになった。私自身も10冊ほどの本のすべてのページをひとりで仕上げていた。それよりも昔、厚紙の台紙にワープロで打ち出した紙を貼り付けていた時代に比べれば、一行を次のページに移すのに、職人芸のようにカッターで切ってずらさずにすむDTPは、いかにも便利で、本などいくらでも簡単にできるように思われた。

図表の数が増え、作業が煩雑になってくると、デジタルに強いデザイナーに外注するようになった。パソコンに張り付かずに済むことはありがたかったが、別途費用が計上された。残業が減ったわけでもなかったから、コストは若干増えたかもしれない。

困ったことに、デザイナーが担当してくれるのは、主にレイアウトスタイルを決めることと、データをほぼ自動的に投入すること、図表を配置することで、修正の多いものになると、デザイナーは途端に協力を惜しむ。「五文字以上の修正はデータを支給せよ」と言われ、代わってくれるアシスタントもいないと、編集者自らがオペレータとして、デザイナーがコピーペーストをするための文字を打ちこむことになる。

はじめにデザイナーに渡す時点で、本文のテキストデータが完全になっていればよいのだが、あとから入る修正も多く、なかなかそうもいかない。それでなくても、原稿を完成させるために、相当量の文字修正やタイプに時間を割かれ、それ以前の事実確認や文章の手直しを含めると、大部の書籍の編集作業は海のように広大で、限りがなかった。

会社を辞めてあちこちの出版社の仕事を見て、愕然たる事実を知った。いろんな方式があるが、結局、一番効率のよいのは、全部印刷所にまかせる昔ながらの方式、つまり、こまめに御用伺いをしてくれる印刷所の熟練のDTPオペレータがページを仕上げ、編集者はパソコン作業から手を引くことであるらしかった(外注デザイナーを使う場合は、データを共有するためにサーバを使う。便利な方法だが、ここではPDF化の手間がかかる)。

となると、パソコンに張り付いていた時間は、いったい何だったのか? DTPによって、業務量と疲労は増大した。内製化によるコスト低減効果が多少あっにたにせよ、原稿の内容を質のよいものにするという本来の編集に割く時間とエネルギーは、侵食されていたにちがいない。

使っていたパソコンソフトでよかったのは、財務関係のもので、データを流用できるようになったことは、数字の集計に大きく役立った。要は、本当に必要なものだけを使うことである。

インターネットやパソコンに親和性の高い人もいる。そういう人たちは、インターネットに無関係に生きている人のことを想像できないかもしれない。見ていると、効率性とスマートさを好むらしいその種の人は、登録しているオンラインニュースを、割合無批判に受け入れたりもする。「このニュースを知っていて話題にすると、気の利いた人に見えますよ」といったトーンで配信される記事は、どうにも気味が悪い。SNS上で目にするある種の情報や言葉づかい、文字づかいにも、受け入れがたいものが多く、それによってその人の一端を窺い知る手がかりになる。

オートメーションの便利さを上手に使って、さりとて信者にはならず、ひややかに距離を置いて、人間がその行き過ぎを上手に微調整し、機械中心のオートメーションから人間中心のオートメーションを模索する動きも一部にあるという。

ちょうど今月はじめに出席した、日本認知症予防研究所の勉強会で、かまどでどのようにご飯が炊きあがるか、風呂に薪をくべるとどうなるのか、カーナビを使わずに目的地にたどり着くとき、何をするのか、という國分先生の生き生きとした話や経験は、人の感覚が子供時代からどう鍛えられるかを教えてくれる貴重な例だった。いつか文字にしなければ、と思う。

※ニコラス・G・カー,篠儀直子訳:オートメーション・バカ――先端技術がわたしたちにしていること.青土社,2015.

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認知症高齢者の自立について

11月の公衆衛生学会のポスターセッションの準備として、10月3日、NPO法人日本認知症予防研究所の先生方のご発表を聴く機会があった。

健康に関するさまざまな調査は、得られたデータを統計学的に分析し、疫学的に解釈してはじめてひとつの形になる。統計や疫学については、書籍の編集でかすかに得た知識はあっても、やはり難しいことだらけである。が、テータの処理が確実にされていないと、せっかくの調査がだいなしになる。

研究会は、そのあたりの重要なところをブラッシュアップする意味合いもあるらしく、國分恵子先生からの案内に、結核研究の大家・森亨先生がコメントされると書かれていたので、素人ながら末席に座らせていただいた。

認知症予防という大きなテーマのもとに、今回は、介護保険申請をして介護認定を受けた認知症高齢者が対象の3本の報告がなされた。いずれも認知症高齢者を5年間追跡した研究で、自立度と意思疎通、有病率について調査データを集め、分析されていた。

自立と聞くと、日常生活動作(activity of daily living:ADL)のことがまず頭に浮かぶが、ここでは、「寝たきり」にならないだけの自立度があるかを調べる「障害高齢者の日常生活自立度(寝たきり度)」が用いられていた。

障害高齢者の日常生活自立度(寝たきり度)

「寝たきり度」の表では、判定ランクは、高い順から、J、A、B、Cと並び、Jは、交通機関を使って外出もでき、立派に自立して日常生活を送ることができる、高齢者としては理想的な状態である。

リハビリテーションの対象になるのが、次のAとB。つまり、なんとか機能を維持して、自立して日常生活が営める人たちである。食事や入浴など、いわゆるADLに含められる基本的な動作より、意外にも感覚機能が維持されるという話も興味深かった。

同じ「自立度」でも、「認知症高齢者の日常生活自立度判定基準」というものもあり、意志疎通についての研究は、こちらの調査項目に沿って行われていたようだ。

認知症高齢者の日常生活自立度判定基準

記憶について出た話で面白かったのは、「見当識」の話である。認知症では、俗に、「見当識」の障害といって、今自分が存在している時間的、空間的、社会的な位置づけがわからなくなる。「いつ」「どこ」にいて、「誰と何をしている状況」かについて、混乱をきたすのだ。このうち、「自分の名前」は、記憶から脱落しにくいとの結果が出ていた。

ケアの際の言葉かけでも、必ず「名前を呼ぶ」ことが大切にされている。自分の名前は長期記憶に属するものだから、短期記憶に比べて保たれやすい。それに、自分の名前を呼ばれることは、どんな人にとっても嬉しいことである。

また、学校の黒板のように、「〇月〇日〇曜日」「ここはどこどこです」「お天気は晴れ」と書いたり、自分でカレンダーに印をつけるなどして、見通しをつけることが、機能維持に大きな影響があるらしい。よく介護の現場でも「自立支援」といって、手を出して世話をしすぎないことが大切といわれるが、できることをなるべく自分で、というのが、脳にはよい影響を及ぼすものらしい。

あまり専門的なところはわからなかったが、森先生からは、データの並べ方についての指摘(調査項目の順より、数字の大きい順に並べたほうがわかりやすい)や、「『罹患率』より『有病率』を使うほうがよい」、「多変量解析で、バラバラのfactorを一緒に組み込んで」などと、専門家らしいコメントがあった。

昨今、若年性認知症が増加している背景として、「過剰に便利になったライフスタイルが脳に悪影響を及ぼしているのではないか」という國分先生の指摘も、やや身につまされた。車はオートマ、道案内はカーナビにおまかせ、電話番号も登録してあるので、自分の指で押すこともなくなった。頭を使わないですむことが、生活の中に確実に増えている。グーグルの「自動運転する車」などは、不自由を抱えた人には便利かもしれないが、どこも何ともない人が使えば、失う機能という意味で、高い代償を支払うことになりそうである。

「東京オリンピック以降に生まれた人があぶない」などと言われたのにも、ギクッとした。その他、脳に好影響を与える料理の効用、五感をフルに使った昔のかまど炊きのご飯の話、ピーラーより庖丁を使うほうが脳によいなどと聞いて、ピーラーが使えない私は、少しだけ胸をなでおろした。

自立度については、障害のある人に用いる国際生活機能分類(International Classification of Fuctioning, Disabilities and Handicaps:ICF)や、機能的自律度評価尺度(Functional Independence Measure:FIM)などもあり、状況によって使い分けされている。

国際生活機能分類(International Classification of Fuctioning, Disabilities and Handicaps:ICF)

こういう場に居合わせないと、耳にすることがないと思ったのは、「介護保険の自立度の調査項目にやや疑問がある」(と言われたように聞こえた)との発言。誰もが共通した尺度でものごとを見て、はかるためのツールは、当然必要だが、それをつくることは難しいそうだ。

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読みにくい文章(3)――pulicationの意味

「専門的な文章が難解なのはやむをえない」と考える人がいる。特別な用語や知識を前提とした文章ゆえそのように感じることもあるが、本当にそうだろうか。

専門用語の多い学術論文でも、日本語としての主語・述語と論理を備えていれば、英文読解と同じで、知らない単語を調べれば、書いてあることの見当くらいはつく。文章の上手い下手とは別に、根気よく読んでいけば、おおよその内容理解はできる。

問題は、いかにもそれらしいフレーズを切ったり貼ったりして、うわべを整えて満足する人のいることだ。個人的なエッセイならそれでもよいが、雑誌や書籍、論文など、公けの場に出る文章でそれを行うことは、著作権という知的な財産の侵害にあたる。研究論文の不正に限らず、その種のことが日常的にみられるのは、書くことがたやすくなり、その意味が驚くほど軽くなったためかもしれない。

昔、医師であり公的な立場の人に依頼した原稿を読んでいたとき、内容に疑問を感じて調べたら、某共済のサイトの引き写しだった。不案内な分野で面倒臭いからといって、なぜその中途半端な内容を「自分の原稿」として提出できたのか、理解できなかった。そういう時こそ、ウェブ上に親切にシェアされた責任をもって書かれた専門家の文献を当たるべきである。大学の研究者の署名入りの論文や役所の資料は、ネット上で山ほど読むことができ、それらを参考にすれば安心して作文できる。

製薬会社の薬効の説明やウィキペディアの解説をコピーしてくる人なども、大学教育を受けたドクターであれば、バレないと決め込んでの故意の愚行である。パクりに気づいてそのまま使えば出版社の責任になるから、こちらで書き直す。書いた人はそもそも内容を覚えていないだろうから、文句を言うこともない。それで原稿料をもらうのだから、いい気なものだ。

何かの拍子に、昔美容学校のテキストに書いた解剖学の原稿を、寸分たがわず「引用」のつもりで書き写した「論文」を発見した。日ごろ使っている教科書の文章を丸々書き写すことに、指導教官ともども何の疑問も抱いていない。この場合、商業的な目的でもなく無知から起きたことであろう。苦労して調べて書いた10頁にわたる原稿と図が納められた論文らしきものを見て、似たようなことを、有名な出版社から何度かされたことを思い出した。著作権は著者にあるとして、ゴーストライター兼編集者には言い分もなかったが、出版社として異を唱えたことはあった。ある時には、先方のライターから無邪気に「活用させていただきました」と丸写しの礼を述べられ、苦笑しつつ「お役に立ててよかったわ」と言ったものである。

一番ひどい例は、有名出版社が、有名教授の有名な教科書の文章を丸々盗用していたことである。その独特の表現を熟読していたために気がついた。編集者のチェックが及ばなかったとしても、書いた著者の愚劣な行動に呆れた。文献の引用について習っているはずのドクターのしたことである。専門家にもひどいのがいるわけだ。ゆえに、専門的な出版物も、そうそう立派とばかりも言いきれない。

読みにくい文章にはいくつかのパターンがある。
第一に、自分が何を書いているかよくわからずに書いているもの。処方箋は、お手本となる文章を読んでそれを真似ること。そして主語と述語を明確にして、自分のわかる範囲で、短めの文で書くことだ。
第二に、自信過剰からか、書いたものが読者に理解されるかどうかに無関心なもの。処方箋は、家族や友人など身近な人に読んでもらって、わかるかどうかや感想を率直に聞くことだ。自覚できれば改善は可能。ただし、よりよくしたいという謙虚さのある人に限られる。
第三が、見かけ上整った原稿の内容にコピーペーストを含むもの。まず、表面的に立派な原稿であっても、盗みを働いたことを自覚すること。さらに、出版(publication)が、「公に発表する」という意味であり、責任を伴う行為であることを肝に銘じることだ。急がば回れで検索の範囲をもう少し広げて、「調べる」練習をすればよい。

ある時、ある人に、本を出版することの意味や、何がいい本か、自分の考えを伝えたことがある。
1)いい本とは、まず、本を読んだ人が、その内容に触れることで新しい知識や物の見方を得たり、心に感じるものがあって、ハッピーになるもの。
2)いい本とは、著者が、その本を書いたことによって、自身も納得し、なおかつ読者の信頼と評価を得て、ハッピーになるもの。
3)いい本とは、出版社が、その本をつくったことによって、読者と著者の両方から信頼と評価を得て、ハッピーになるもの。
4)いい本とは、上記の結果、社会に広く受け入れられることで、繰り返し増刷に至り、関係者に利益をもたらすもの。

もちろんこんなのは理想論にすぎないが、この四つを満たした本を、幸運にもいくつか手がけた。ある有名出版社の社長が、出版界の動向を話し合うシンポジウムで何度も、「出版社はいい本をつくるしかない」と発言したのを耳にするにつけ、背中を押された気分になったのを覚えている。

伝えた相手からこの件についての反応はなく、代わりにきわめて限定された出版物だけを出すという方針を言い渡された。出版方針は出版物の種類とは関係がないから、同じ方針に基づいて制作にあたり、そこでも一定の成果が上がった。やはり内容のいいものを作ることは、編集者にできる最大限の営業努力であるという考えが強くなった。

真摯な書き手は言う。「自分たちの研究や努力によってわかったことを、多くの人にシェアすることで、社会をよりよくする役に立てたい」と。結局のところ原稿の質を決めるものは、「なぜ書くか」という根本の動機と、対価を払って読んでくれる人に対する誠意に尽きる。賢そうなハウツーなどでは、質を上げることはできない。

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「宗教」はアブナイか

「そんなのは『宗教』だ」とか「『宗教』ってアブナイよね」という表現をよく耳にする。

テロ行為を命ずる教祖のいる宗教団体は、むろんアブナイものである。ただ、ある強烈な思いこみや信念を揶揄する意味合いでこの言葉を使って、自分はそんな怪しげなものとは距離を置いて賢く生きているのだというのなら、宗教以外の強烈な思いこみにも同じ態度で接するのが公平というものだ。

上手にお金を儲ける人を礼賛する時代にあって、人間の精神や地球や宇宙に素朴に関心をもつ人は、オカルトのレッテルのもとに十把一からげにされる。馬鹿にする人にかぎって、宗教やオカルトに対する知識を持ち合わせてはいない。かといって、スピリチュアルを前面に押し出す人も、ややバランスを欠くように見える。儒教道徳や流行の心理学や脳科学を熱心に勉強しても、人間が予測もつかない生き物であることが、どれくらいわかるものか定かではない。適度に批判精神をもちつつ、さりとて頭ごなしの否定はせず、ニュートラルに物を見る姿勢を保てるとよいのだろうか。

特定の宗教に傾倒する人にアブナイ印象をもったことはある。学生時代、護摩焚きで有名な宗派を熱心に信じている人がいた。彼女の言うには、自分が困った時に奇跡的なことが起こり、その宗教を信じるに至ったそうだ。聞けば、激しい痛みを伴う生理が、その予定日を大きくずらして受験に重ならなかったそうで、人はそんな理由からでも熱心な信者になるのだなと思った。

真面目な人で、顔つきは少し暗く、18歳にしては驚くほど体が硬かった。信心をすれば、人のもつ因縁を切ることができるという考え方に違和感を覚えた。そのような断定の根拠がわからなかったし、因縁を切るためにその宗教を信じるべしという理屈だとしたら、それも胡散臭いと感じた。

ちょうどその頃、『新人類と宗教――若者はなぜ新・新宗教に走るか』などという本も出ていた。年だけ増えても特に安定する気配もない自分から見ても、10代の若い時期に、人生とは何かを真面目に思い悩んで、自分のもっていきどころもわからなくなれば、正しいと思われる教えに惹かれるのは、無理もないことだ。責められるべきは、そんな若者を、意図をもって操作しようとする側である。

どんな人も「祈り」という行為と無縁でない以上、「信じる」という行為を、頭ごなしに否定できない。「死後の世界はある」と言った丹波哲郎を笑った時代もあったのに、人の魂の永続性を信じる人が今は増えている。死後の世界のあるなしは、どちらでもよいことだが、なぜそれを信じるのか、よく考えてみる必要はある。

信じるということを考えると、実際の宗教よりもっと括弧つきの宗教に近い扇動や洗脳的な情報が今も溢れているように思う。そのひとつがインターネット上の情報で、そのトーンと付和雷同の激しさは気味が悪く、SNSの威力は、まさにその洗脳性にあると感じる。最新だと誰かが故意に流した情報に精通したり、人気ブロガーの発言に過敏な人は、立派なネット教の信者に見える。

子どもの頃、ギリシャ神話やローマ神話の人間味あふれる神様たちが大好きだった。キリスト教の知識は、8歳の誕生日に贈られた犬養道子さんの『聖書物語』や、もう少し大きくなってから観た映画「ポセイドンアドベンチャー」でジーン・ハックマンが演じた神父の印象くらいしか持ち合わせていなかった。日本にも日本式の教会があると知っていたが、仏教について知る機会はなかった。

子育て中の姉が、子どもを叱るとき、「(悪いことをすると)神様が見ているよ」とよく言っていた。面白いもので、子どもが、なんとも言えない神妙な顔つきになった。自分を超えた大きな存在があり、その前ではごまかしがきかないと、子どもなりにおそれる気持ちをもっていたのだろうか。自然とじかに向き合っている人は、いやでもその感覚をもたざるをえない。すべてを自分の意志でコントロールできると考えるのは思い上がりである。この感覚をきちんともっていないと、自我が無駄に肥大した科学教の信者ができやすいように思う。

信仰や教会について、はっとさせられたのは、渋谷の小さな劇場で『炎のジプシーブラス』という映画を観た時だった。ルーマニアの地図にも載らない小さな村に、ジプシーたちのブラスバンドがある。譜面も読めない彼らの演奏は素晴らしく、世界中で演奏旅行をさせようと、ドイツ人の若者ヘンリがプロデュースする。

貧しい彼らが演奏旅行から戻って、最初にしたことが、荒れ果ててろくな十字架もない教会を自分たちの稼ぎで立て直すことだった。ヘンリは、先に学校をつくろうと提案したにもかかわらず、彼らは当然のことのように、誇らしげに自分たちの教会をきれいにした。教会とは、そんなにも大切な場所なのか、と、驚いた。宗教とは何か、知らないではすまされないと思った。実際に、多民族国家であるアメリカでは宗教の授業があるし、キリスト教系の学校に進んだ姪からも、宗教の授業を受けたと聞いた。

『人形の家』で有名なルーマー・ゴッデンの『台所のマリア』という童話には、ウクライナから来てイギリス人の家で働くさびしげな女中のマルタが登場する。彼女のさびしさの理由を聞いた二人の子供たちは、台所に「あるべき」硝子のランプと聖母マリアの絵を手に入れようと大奮闘する。それらの品物が本来のあるべき場所に整えられた時、マルタは顔を輝かせて祈りの言葉を口にする。信仰や信念が大きな意味をもつことを思わずにはいられない。素朴な女中が信じる宗教は、アブナイどころか彼女の心の大切なよりどころなのだ。

人が変わるための行動変容においても、信念(belief)という言葉が使われる。実際に、人は、自分が信じている通りに物を見て、行動し、好んで何かに閉じ込められたがっていることもある。それを取り去ることで、新しい生き方を手に入れることもできる。拒食症の患者が、キリスト教に入信して治ったと聞いて、人間とは面白いものだとつくづく思った。ここでも宗教はとくにアブナイ感じではない。敬虔なクリスチャンで立派な方もたくさんおられる。

「これが正しい」とか「これが賢い」と信じ込んで、その価値観を人に押しつけようとする人のほうが、自分を顧みることのない分、アブナイ人に思える。共感や承認を過剰に求めるSNSの世界が、心底苦手だ。

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映画「パリよ、永遠に」に見る対話

『交渉術』を著したロジャー・フィッシャーに師事した方に、「『交渉』とは、相対する二者以外に、第三者の視点からもその結果が妥当であるとみなされるものであらねばならない」と教わったことがある。
よく話してみなければ、真に相手が求めることはわからない。

というのは、一方が必要とするのがパンの耳、もう一方が白い部分など、互いの利害(interest)が調整可能な場合もあるためだという。交渉が必要な理由は、双方が柔らかな白い部分を望むからだとばかり思っていた。

人命にかかわる場合を除いて、思い浮かぶ「交渉」の多くは、「金銭」や「時間」など、双方が自分の利害に固執して譲らない状態からスタートし、許容できる範囲の「妥協」で終結するイメージがあった。「パリよ、永遠に」は、戦時の二人の人物の間に繰り広げられる交渉の過程をたどる物語である。最後には、相対する二者だけでなく、全世界が深く納得できる見事な結論が導かれる。

1944年、パリを占領中のドイツ軍の将軍が、「パリの街に爆弾をしかけて吹き飛ばせ」というヒトラーの命令を受ける。まさに実行に移すばかりの時、現われたスウェーデン人の外交官の説得によって、事態を回避した、そのやりとりが映画になっている。オリジナルは同じ俳優どうしによる舞台劇であるという。

ドイツ人の将軍の滞在するホテルの一室に、どこからともなく見知らぬ男が笑顔で登場する。その部屋のからくりも面白いが、饒舌なこの珍客は、名乗ったあともやはり謎めいている。やがて来訪の目的が告げられ、ある手紙が将軍に手渡される。ドイツ軍には勝ち目のない戦況で、降伏を促す内容が連合軍から届くのだ。即刻却下される。

この中立国の外交官は、明らかに連合軍の回し者にちがいない。しかし彼は、「自分は個人としてここに来た」と言う。なぜなら,美しいパリの街を守ることは自分の心からの望みであるのだから。

ノートルダム寺院もオペラ座もエッフェル塔も、ルーブル美術館も、こなごなにするのは,数十分で事足りる。しかし、何年か後にその美を楽しむ人々のために、何としても残すべき価値のある風景なのだ。
その言葉を証明するかのように、繰り返しパリの街が映像にとらえられる。

しかし,この程度の言葉で将軍の心は動かない。かたくなに「お引き取りを願おう」と繰り返す。自分は、命令通り、パリの街を破壊するのであると。

外交官は、部屋の壁にかかる絵を見て「あなたはアブラハムか」と将軍を激しくなじる。神の命令とあらば息子を殺すのか。かと思えば、「あなたに子どもはいるか」と弱い部分を突いてゆさぶりをかける。さらには、「見る目がなかった。あなたのことも自分のことも」と、今度は自分の弱さを見せ、あらゆる角度から攻め込んでいく。

何を言われようと、ドイツ人の将軍は、ヒトラーからの命令には絶対服従するよりほかない。それが彼の立場であり役割であるからだ。爆破部隊に連絡をすると、邪魔が入って計画の進行が妨げられていることを知る。このあたりから、交渉する気のなかった相手への見方が変わる。明らかにこの男は何かを握っている。どこまで知っているのか、確かめねばならない。

相手の態度が変わると見るや、外交官はまた少し攻め方を変える。刻々と変化するせめぎ合いのさまは実に見ごたえがある。ひとつの部屋にいて、ただひとつ言葉だけを道具に主張し合い、互いに影響を与え合う。ある種のゲームを見ているようでもある。

将軍とて、下された命令の無意味さはよくわかっている。しかし、彼はある事情によりそれを実行せざるをえない。それを、交渉相手にポロリと話す。「君ならどうするのだ?」と。

彼がはじめ主張していたインタレストは、本当のものではない。それが、時間とともに薄皮を剥ぐように中から表れ出てくる。そこを外交官は察知して、ゆさぶりをかける。つまり、交渉を試みたからこそ、真のインタレストが明らかになってきたのだ。

そのあとのスピーディな展開は鮮やかだ。外交官は、終始誠実な態度でまちがいなく成功する作戦を提示する。それは、将軍の最も懸念することを見事に解決した上で、パリの街を守ることにもなる。

もとより命令に従うことに乗り気でなかった将軍は、対話の中で芽生えた見知らぬ相手への信頼に望みをたくし、彼の提案を受け入れる。

「なぜ私を救いに来た?」と、将軍が尋ねるシーンがある。交渉相手が自分を救ってくれる存在だと感じるまでに彼の心は動かされた。むしろ、救われたかったと彼が願っていたことがこの台詞で明かされるようにも見える。敵側としか思えない人間が実際には自分を救う。ありえないことのようだが、相手の出方次第で物事が大きく動くとき、交渉の場では案外このような心理が働くこともあるかもしれない。

しかし、実際には、将軍の思惑とは異なる終結に至る。つまりは、外交官および連合軍側からすれば、はじめから決定されていたゴールに落ち着いたことになる。

これはしかし騙したのではなく、さまざまな点において、やはり救いだったのだと思う。将軍の名誉も家族も守られ、のちに彼には勲章が贈られる。両者ともに勇敢であった。互いのインタレストをきちんと守ることができたという意味で、歴史に残る立派な交渉が、粘り強い対話によって行われたのだ。

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「詩とメルヘン」とやなせさん

姉が買ってきた「詩とメルヘン」は、夢のような雑誌だった。

見たこともないくらい大判で、表紙には鮮やかなイラストが描かれていた。巻頭の言葉は、最後の一行が「ところであなたは買いますか?」で終わることに決まっていた。回を重ねるごとに、「ところであなたは……」と、みなまでいわなくなったのがおもしろく、姉が買わなくなってからも、毎月楽しみに買っては読んだ。

ちょっと素人くさくてあまり上手ではない詩もよく取り上げられた。うまくないところになんともいえない味があり、心に残った。

昨年、やなせさんが亡くなられ、今年になってから『だれでも詩人になれる本』を懐かしく読んだ。印象深かった菅野さんの「お地蔵さま」という詩は、どこかの同人誌で発見したものを、頼んで自身の雑誌にとったものだというエピソードを知った。その詩がよけいに好きになった。

何も知らない頃に出会う先生は大切だ。詩は、難解なのがいいとはかぎらない。下手でも自分の言葉で語るのがいいというやなせさんの影響で、借りてきた言葉を無理に使う必要はないと思うようになった。それに童話をたくさん読んで大きくなった子は、人の見かけにだまされない。カエルが姿を変えた王子だったり、浮浪者の背中から羽根がはえてくることはよくある。その分現実的な損得勘定は不得手かもしれないが、生きる上ではささいなことだ。

「詩とメルヘン」で、プレヴェールやアポリネールを知り、八木重吉や石垣りん、高田敏子の詩と出会い、安房直子の童話、味戸ケイ子の少し気味の悪いような幻想的な絵、東くんぺいの切り絵と魔法ばなしを知った。阿久悠や井上陽水の特集についていたさびしげな女性の絵では、いつもの漫画とは全然ちがうイラストレーターやなせたかしに触れた。

早逝した詩人のブッシュ孝子の『白い馬』にある「凡人なる凡人は」という少しユーモラスな詩は、とくに私のお気に入りだった。

凡人なる凡人は

凡人なる凡人は 自分が凡人ではないと思っている人
非凡なる凡人は 自分が凡人であると知っている人
非凡なる非凡人は 自分が非凡であると知っている人
凡人なる非凡人は 自分が凡人であると思おうとしている人
この順に数は少なくなる

言葉は、いくらたくさん頭に入れても、ちっともかさばることのない荷物である。散歩途中の風景で、好きな俳句や短歌を思い出すと、一日きげんよく過ごせる。

寒い日には寒い日の言葉、雨の日には雨の日の言葉が、いつでも口をついて出るように、どんな日もきげんのよい日になるように、まだまだ仕込みは欠かせない。

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