「ラリー・ドッシー」と書いたメモ

もう何年も読みたい本が読めず、途中であきらめることが多かった。
疲れてばかりの毎日を無理にやり過ごす生活を変えてから、少しずつ好きなことを思い出し、大切な本を読み返せるようになると、どこかから昔書いたメモが出てきた。

何の本なのか資料なのか、ホリスティック医学で著名なラリー・ドッシーの文章の抜粋か要約か、記憶もないが哲学的で詩的な言葉が並ぶ。

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時間は、非直線的なものであり、過去・現在・未来の区別に意味はない。
時間は、流れない。なぜなら自然界で論証できないから。
空間は、時間と切り離せない。
デカルトとニュートンに別れを告げよ。

世界の客観的記述→科学と歩調を合わせる必要→生と死は自然界の一部
→科学が自然界を語るには時間現象が含まれる→科学の言葉に耳を傾ける必要
→現代科学を偏向して採択してはならない→科学が示す見取り図全体を見つめる必要
→時間の概念を認めざるをえない。

科学的態度たらんと欲すれば、現代物理学が露わにした時間の本性を無視することはできない。

世界は起こらない。世界はただ存在するだけだ。

人の生命はONとOFFではない。

シナプスの間には、静かなささやきが、いつも続いている。

生命を扱う場合、量子的解釈をしないわけにはいかない。

不可解なのは、最初の症例が報告されるまで、この病気はいったいどこに身を隠していたのか、という点だ。

姿を隠していたのは病気ではなく、むしろ医者の知覚の方であった。

科学の歴史とは、科学的事実に適応しようとして常識が身をよじるプロセスの歴史に他ならない。

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メモに導かれるように、つい先日、何年も読めずにいたラリー・ドッシーの『祈る心は、治る力』を読んだ。祈りは確かにひとつの力であること、祈りが科学的に研究されていることを知り、人の心が健康状態に及ぼす影響を改めて考えさせられた。悲観的に考えればどうしても健康は悪化するしかないからだ。

15年ほど前に観たクロード・ルルーシュの「男と女 嘘つきな関係」は、あまり知られていないかもしれないが、「男と女」の三作目で、非常に象徴的なテーマを扱っていた。実際に病気の人間と問題のない人間のデータをすり替え、健康な人間に「あなたは病気である」と伝えるのだ。ある女性医師のそれは昔の恋の復習なのだが、その言葉と思い込みが、徐々にその男を死に向かわせる。言葉と暗示による殺人である。

対照的に、本当は病気であったはずの男が、自分は病気ではなかったと思い込むことで、どんどん明るく元気になっていく。いかにもありそうな話で、怖くて洒落た映画だった。

昨年暮れに、『天使に会える日 あなたをたすける39のエンジェルたち』という本を読んだ。数年前にタイトルと表紙でなにげなく買って、頁を開いて著者がドイツの神父だと知った。「愛の天使」や「自由の天使」にはじまり、いろんな天使が登場するが、ショッキングだったのが「信念の天使」だ。

――信頼は、いま見えている以上のものを、見せる。……どんなことでも、表面だけでなく、その奥にある現実を見せるのだ。
 マリー・ルイーゼ・カシュニッツは、短編小説『天使の橋』で、この信頼について描いている。船主ジョヴァンニ・デ・マータの物語。……
 

このジョヴァンニは、捕虜を解放するために海賊に財産をすべてとられ、さらに船のマストや舵をこわされ、帆を引き裂かれる。しかし、彼が出航しようとすると、マストも舵も帆もない船が海上を走ったというのだ。

ありえないことのようだが、これに似たことをいくつか知っている。ふつうなら生きていられないほどの状態でも、生きたいという強い意志が人を生かすことがある。説明ができなくても、そのような不思議な力が「いのち」にはあると考えるしかない。

毎日元気に目が覚めて、食べ物がおいしかったり面白いものを見て笑えることが、しみじみと不思議に思われる。何でもない日々は無数の天使に守られているのだろう。

angel

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