『オートメーション・バカ』を読んで

パソコンの高度な使い方ができないせいか、過剰にデジタルをよしとする風潮に抵抗がある。昔勤めていた小さな新聞社では、「記事は手書きだ」というボスのもと、各種悪筆を解読する能力が身についた。「これは〇〇さんの字」と瞬時に知り、その性格を推測したりするのは、楽しい作業でもあった。修正の便利さから、私だけはワープロで書くこともあったが、縦書きの原稿は、やはり手書きで原稿用紙のマス目を埋めた。

先日ある方と、「iPadに千冊分の書籍データが入る」と話していた際、その方の知人のアメリカ人が、便利そうに検索などしてそれを実演してくれ、ポロッと、「こうして人はちゃんと本を読まなくなるのですね」と言ったと聞いた。Kindleを使ったことはないが、内容がその形態を受け付けないものもありそうに思え、どうしても紙の本を選ぶ。手書きで書かれた葉書きや手紙も、やはり嬉しいものである。

本書に書かれていることをひとことでまとめれば、「オートメーションの便利さが、深い部分での人間のスキル低下を招いていることに注意せよ」ということになるだろうか。著者のニコラス・G・カーには、『ネット・バカ』の前著もある。文字通り、技術が進歩して、人間がバカになるとしたら、警鐘を鳴らさないわけにはいかないだろう。

スキルが低下すると、想定外の事態に自力で対応する能力が失われる。ここに、2009年、コルガン・エアのバッファローでの航空機墜落事故(パイロットが適切に対処できなかった)や、2008年の金融メルトダウン(高速処理に長けたコンピュータがリスクの計算間違いをして、それがさらに加速された)などの見過ごせない事態が、証拠として挙げられる。

そのほか、医療においては、患者と医師の間がコンピュータ画面で遮断されること、システムに組み込まれたオプションの機能による医療費の増加がみられ、建築設計の分野では、手書きのドローイングをおろそかにした結果の創造性の減少などの例が述べられる。医療の現場では、データや検査数値が、目の前の患者の状態把握をかえって間接的にする面もあると聞く。手も触れず会話もかわさず、数値だけで診断するなら、医師は必要ないし、数値が正常でも、本人の具合が悪ければ、そちらを重んじるのが本当だ。

人間は、こつこつと地道な訓練を積み重ねると、その作業が無意識に自動的にできるようになる。そのように人間に備わるオートメーションを暗黙知とよぶ。人間の深い部分の暗黙知が、オートメーションの外在化によって、育つ機会を失うのは怖いことである。外部のオートメーションに依存することは、さまざまな分野で専門家のスキルと知識を侵食し、単に「モニタリングをする人」に変質させている。コンピュータ・トレーディング・システムが、金融市場をよりリスキーなものにしているという論文も、2013年に出たという。

「期待されたコスト低下はむしろ達成されなかった」という記述から、自分の過去の経験を思い出した。

今から20年近く前、出版社に、次々とパソコンによるDTP(desktop publishing)システムが導入され、従来印刷所にまかせていたページ組み作業やイラスト作成を内製化できるようになった。私自身も10冊ほどの本のすべてのページをひとりで仕上げていた。それよりも昔、厚紙の台紙にワープロで打ち出した紙を貼り付けていた時代に比べれば、一行を次のページに移すのに、職人芸のようにカッターで切ってずらさずにすむDTPは、いかにも便利で、本などいくらでも簡単にできるように思われた。

図表の数が増え、作業が煩雑になってくると、デジタルに強いデザイナーに外注するようになった。パソコンに張り付かずに済むことはありがたかったが、別途費用が計上された。残業が減ったわけでもなかったから、コストは若干増えたかもしれない。

困ったことに、デザイナーが担当してくれるのは、主にレイアウトスタイルを決めることと、データをほぼ自動的に投入すること、図表を配置することで、修正の多いものになると、デザイナーは途端に協力を惜しむ。「五文字以上の修正はデータを支給せよ」と言われ、代わってくれるアシスタントもいないと、編集者自らがオペレータとして、デザイナーがコピーペーストをするための文字を打ちこむことになる。

はじめにデザイナーに渡す時点で、本文のテキストデータが完全になっていればよいのだが、あとから入る修正も多く、なかなかそうもいかない。それでなくても、原稿を完成させるために、相当量の文字修正やタイプに時間を割かれ、それ以前の事実確認や文章の手直しを含めると、大部の書籍の編集作業は海のように広大で、限りがなかった。

会社を辞めてあちこちの出版社の仕事を見て、愕然たる事実を知った。いろんな方式があるが、結局、一番効率のよいのは、全部印刷所にまかせる昔ながらの方式、つまり、こまめに御用伺いをしてくれる印刷所の熟練のDTPオペレータがページを仕上げ、編集者はパソコン作業から手を引くことであるらしかった(外注デザイナーを使う場合は、データを共有するためにサーバを使う。便利な方法だが、ここではPDF化の手間がかかる)。

となると、パソコンに張り付いていた時間は、いったい何だったのか? DTPによって、業務量と疲労は増大した。内製化によるコスト低減効果が多少あっにたにせよ、原稿の内容を質のよいものにするという本来の編集に割く時間とエネルギーは、侵食されていたにちがいない。

使っていたパソコンソフトでよかったのは、財務関係のもので、データを流用できるようになったことは、数字の集計に大きく役立った。要は、本当に必要なものだけを使うことである。

インターネットやパソコンに親和性の高い人もいる。そういう人たちは、インターネットに無関係に生きている人のことを想像できないかもしれない。見ていると、効率性とスマートさを好むらしいその種の人は、登録しているオンラインニュースを、割合無批判に受け入れたりもする。「このニュースを知っていて話題にすると、気の利いた人に見えますよ」といったトーンで配信される記事は、どうにも気味が悪い。SNS上で目にするある種の情報や言葉づかい、文字づかいにも、受け入れがたいものが多く、それによってその人の一端を窺い知る手がかりになる。

オートメーションの便利さを上手に使って、さりとて信者にはならず、ひややかに距離を置いて、人間がその行き過ぎを上手に微調整し、機械中心のオートメーションから人間中心のオートメーションを模索する動きも一部にあるという。

ちょうど今月はじめに出席した、日本認知症予防研究所の勉強会で、かまどでどのようにご飯が炊きあがるか、風呂に薪をくべるとどうなるのか、カーナビを使わずに目的地にたどり着くとき、何をするのか、という國分先生の生き生きとした話や経験は、人の感覚が子供時代からどう鍛えられるかを教えてくれる貴重な例だった。いつか文字にしなければ、と思う。

※ニコラス・G・カー,篠儀直子訳:オートメーション・バカ――先端技術がわたしたちにしていること.青土社,2015.

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