「言ってはいけない」

小さな子ども相手ならまだしも、誰かに何かを話した時に、「わかりましたか?」と念を押すのは無駄なことだ。そう前に聞いた。4、5年前、ヘルスリテラシーについて、聖路加大学の中山和弘先生のお話を聴いていた時のことだ。

リテラシーという言葉は、読み書き能力を指しており、おおまかに「ある情報を整理して理解し、利用する能力」をいう。頭にメディアがついたり、医療や健康、ネットなどの言葉がつくと、その分野についての情報活用能力という意味になる。

ヘルスリテラシーという概念は、健康についてのさまざまな情報を理解した上で、自分で「健康を決める力」と説明される。アメリカで生まれたもので、いろんな人種や教育レベルの人への啓発も含め、ヘルスプロモーションの重要な概念である。リテラシーが、教養や知性と近い概念だとすると、まったく不案内な分野について、よほど噛み砕いて説明しなければ理解が難しい人がいても不思議はない。

背景がちがうことは、その人の責任ということにならない。それに、どんなに役立つ情報であれ、いろいろな事情によって、すべての人がそれにアクセスできるとも限らない。そんなわけで、一度や二度の説明で、相手がわかったかどうかを無邪気に尋ねることの軽率さが指摘されたのだった。

「わかりましたか」と聞かれれば、「いいえ」とはなかなか言いにくい。「わからない」と言うのは失礼な気がするし、あえてそう言うのには勇気を必要とする。めぐりの悪い奴だと思われたり、その人の気分を害したりしたくない。よって、「わかりましたか」という質問は、意図せずして、相手に「イエス」を強要する質問となる場合が多い。

人に対して何かを伝える時は、なんとか相手に自分のメッセージが届くように、できるだけの努力をして、わかりやすくする以外にない。顔を見ていれば、相手の表情や気配から読み取ることもできるが、文字だけで伝える場合、少しでもわかりにくくないか、誤解を与えないか、じっくり考えて書くに越したことはない。

昔、藤田恒夫先生が、「文章というものはすみずみまでわからなければならない」と言って、「面白い表現だけど、削りましょう」と、私の文章に手を入れてくださった。インタビュー記事の文末の(笑)などは、必ず削除された。すみずみまで配慮した文章に、よけいなものはいらないのだった。

「みなさんおできになります」も、聞きようによっては微妙な言葉だ。ニュアンスとして、「だからあなたも大丈夫」、「なのにあなたはなぜ」の二通りあり、自分が思うようにできていない場合は、励ましではなく苦情めいて聞こえる。言われる人の気持ちを考えれば、人に注意することはなんとも難しい。相手にすれば、思ってもみない指摘であるかもしれないからだ。

わかりの悪い相手に、「何度も申し上げておりますように」と言ったことがある。いい加減うんざりしていたにせよ、言う必要のない言葉だった。もしその人が、人の話をすぐに忘れたり、どうしても理解できない人だとしたら、残酷なことだし、「どうもそうらしい」と気づいていながら、別のアプローチをしなかったことは、こちらの怠慢である。

認知症の母親との交流を描いた映画「ペコロスの母に会いに行く」を撮った森崎東監督が、自身も認知症だったことをドキュメンタリー番組で知った。スタッフは、言う必要のない言葉を言わず、監督の足りない言葉を想像して理解し、辛抱強く制作に携わったのだ。

9月に京都教育大学の社会言語科学学会で拝聴した井出祥子先生の講演録音を聴きながら、なんとすみずみまで配慮され、多くの人にしっかり伝わるお話ぶりかと、感心ばかりしている。書く時だけでなく、話す時も、こんなふうに、子供からお年寄りにまでわかるような伝え方を、できるできないは別として、せめて心に留めておかなければと思う。

This entry was posted in ことば・詩・音楽, 人・場所・会話, 音緒・ねお・NEO. Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です