何となく描写があって何となく感想が混じるような書き方も、読みにくい部類に入る。
たとえば、こんな文である。
「最近の若い女性はスタイルもよく、みんなおしゃれです。しかし顔色はあまりよくありません。生活リズムが不規則で食事をきちんととっていない人もいると推察されます。バランスよく栄養をとらないと、健康にもよくないし、精神状態も不安定になるのではないかと心配します。また、電車の中で化粧をする人がいます。美しくありません」
唐突な印象を受けるのは、どうも主語のせいではないかと思う。一見客観的な事実が書かれているようでありながら、主語が曖昧なため、どこまでが事実でどこからが意見か、わかりづらいのである。
書かれている事実もしくは観察は、
・若い女性はスタイルがよく、おしゃれだ
・バランスよく栄養をとらないことは、健康によくない
・電車の中で化粧をする人がいる
ということである。
おしゃれであったり顔色がよくなかったりするのが若い女性「みんな」であるとは限らないので、こういう場合は一般化せずに、「自分にはそう見える」「電車の中を見回して目に入った若い女性はみんな」と書けば、ケチがつけにくい。また、「なぜそう感じるか」も、ひとこと加えれば、違和感を減らす役に立つ。「いつも」「絶対」「必ず」などは、「本当にそうなのか」と突っ込まれやすい言葉なため、避けるか語尾で調節しておくと、これもケチがつけにくい。
書き手が「そうではないか」と推測しているのは、次の2点である。
・(若い女性の顔色がよくないのは)生活リズムが不規則で、食事をきちんととっていないためでは?
・(栄養バランスが悪いと)精神状態も不安定になるのでは?
顔色が悪くみえる若い女性が、栄養バランスが悪いのか、恋や仕事に悩んでいるのかは不明である。またここで「推察」という言葉を使うと、レポートのような硬くて冷たい感じになる。さらに、食事と精神状態はまったく無関係とはいえないだろうが、精神状態を決める条件に、「栄養バランス」と、その前の文にある「生活リズム」も含めているとすると、文の切り方がいまひとつである。
よく子どもの作文に、「きょう楽しかったのは、みんなでお弁当をもって公園に行って一緒に食べたことが楽しかったです」といった、途中で主語を置き忘れてきたようなのがあるが、この文章もそれに近い。はじめのほうのバランスよく栄養をとっていないのは「若い女性」なのに、いつのまにか尻尾の方で心配するのは書き手になっている。
書き手の意見は、
・精神状態が不安定になるのではないか
・(電車内で化粧をすることは)美しくない
に表れているが、そもそも何が言いたくて、こんな文章を書いたのだろうか。
紀行文や自然の描写、あるいは心に思うよしなしごとが書かれているなら、読む人もそういうものと思って自然に読めるが、ここで挙げた例文は、何となく書き手にメッセージがあると感じるだけに、「この人の言いたいことは何?」という疑問が読み手に残る。
たとえば、「おしゃれやメイクが上手でも、真の美しさのためには心やからだの健康が大切」ということが言いたいのであれば、少し言葉を足すだけでぐっと親切になる。
「毎朝電車でみかける若い女性は、みんなスタイルがよく、おしゃれも上手です。しかし気のせいかどの人も顔色はあまりよくありません。もしかして残業続きで睡眠不足なのでしょうか。それとも食事をつくるのも面倒で朝ごはん抜きなのでしょうか。
少々忙しくても、バランスよく栄養をとっていれば健康は保てますし、イライラすることもありません。生活リズムが乱れると、精神状態が不安定になることもありますから、若いとはいえ気をつけてほしいところです。
また、きれいな服を着て電車の中で化粧をする人も、最近は珍しくない光景ですが、だらしない印象で感心しません。どこかで読んだのですが、『電車で化粧する女性はブスが多い』なんてシビアな意見もあるほどです。
きれいでいたければ、外見より中身、それも食事や睡眠を大事にしたほうが近道だと私は思います。そして、もっときれいになるためのお化粧も、きれいな人にかぎって人前ではしないもののようです」
こう書けば、なぜ栄養や精神状態のことを言うのか、読んでいてよくわかる。「心配だ」と書かなくても、書き手の若い女性に対する心配や愛情もはっきり読み取れる。「推察」するに、おそらく、こういうことが言いたい文なのではないか(「推察」という言葉も、受け身にしなければ硬すぎない)。
書いてみてから、その言葉を並べただけで十分かどうか、自分の言いたいことが読み手に伝わるか、わかりにくいとしたらどの部分か、少し想像してみるだけで、間を埋める言葉を思いつくのではないかと思う。推敲は、わかりやすくするための作業である。
文章はパズルかパッチワークのようなものである。いくらでも切ったり貼ったりすればよい。