本をあまり読まなかった学生の頃、たまたま手にとった文字の少ない本がテネシー・ウィリアムズやモリエールだったことから、演劇に興味をもつようになった。
「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉を美しいと思うような年頃に、「人はパンとスープで生きるのだ」と断定するモリエールのリアリズムは明解で、スカッとした。「病は気から」という喜劇には、これといった原因もないのに、自分を病気だと信じきって、ありとあらゆる部分に悪いところを見つけ、これでもか、と治療をほどこす趣味の男が登場する。彼なりの「健康」に近づこうとする意志と努力は涙ぐましいが、読者や観客には、どう見ても嬉々として病人であり続けようとする矛盾が喜劇と映る。たしかに自分の病気を表明することには、ある種の責任を免除されたり、何かを回避できるメリットがある。病気の問屋のような人に会ったことがあるが、よく似た感じの人だった。
若者ならともかく、何十年も使い続けたからだは、さびついて当然である。むしろネジの何本かポロッとなくしても、動きの悪い部分があっても、それなりにやっていけるし、実際、多少の不具合のなかでも、きげんよく暮らせる。差し迫った状況でないのなら、「だましだまし」悪いところとつきあいつつ、不具合調整のための薬や治療は、ほどほどにするのがよいように思われる。
昔、高齢で癌に侵されていたにもかかわらず、生き生きと舞台を駆け回った宇野重吉の姿をテレビで観たことがある。やせほそったサミー・デイビス・Jrが、十八番の「ミスター・ボージャングル」を歌いながら、グレゴリー・ハインツとともにタップを踏んだのも観た。立つこともできないほどの苦痛の中で、なぜ、そんなことができるのだろう。
生きることへの意志や、その場で自分にできることをするために動こうとする――そのようなエネルギーの働きを、「スピリット」とよぶのだと思う。Vital forceという英訳もあるほどだ。そんなスピリットが、人間に自らを癒す力を与え、肉体や精神を統治する。よって心ある医師は必要に応じ、科学的診断に加えて「魂」「スピリチュアル」という面を治療の中に含めないわけにはいかないのだろう。その人が本来もっているエネルギーを生き生きと発揮できる方向に導けば、心もからだも、あるべき自然の姿におさまるという健康な状態を取り戻せることが、彼らにはわかっているのである。
「癒し」という言葉と同様、「スピリチュアル」という言葉のはやり方が少しズレていて、気持ちが悪い。「スピリットはエネルギーであり、自らを癒し生かすものである」――こんな定義をしてみたい気がする。