読みにくい文章(1)

「いい文章とは何か」と聞かれたら、私なら、第一に、わかりやすいこと、第二に、その人らしいことを挙げる。できれば第三に、読む人が困らないような配慮がなされていればなお素晴らしい。

上手か下手かは、感じ方も好みも人それぞれだから、正直よくわからない。書きなれたなめらかな文章でも、何となく内容に乏しかったり気取っていたりするものは、あまり好きではないし、上手くなくても正直に一生懸命に書かれているものには、読んでみたいと思わせる魅力がある。

中学生の時、ちょっと不良がかって優等生ではなかったN君が卒業文集に、「さぼってばかりの僕に、勉強を教えてくれて、みんな、有難う」という文を寄せた。つっぱりの彼がこんなに素直に人に礼を述べたことに驚き、とても嬉しくなったのを覚えている。口では照れくさくて言えないことを文字にするのも、勇気がいっただろうけど、意外な彼の一面を冷やかす人は誰もいなかった。

昔、注意欠陥・多動性障害の翻訳書をつくって、若い女性読者から届いた長文の手紙も忘れられない。子どもの頃からの悩みや大人たちへの憤り、冷静な観察など、注意欠陥などと呼ぶのは失礼なほど、しっかり書き込まれていた。一通の手紙を書くのに何日もかかったためか、途中でトーンが変わったりはしたが、その本を読んでいかに自分が心を動かされたかを知らされることは、作り手への何よりのご褒美だった。返信で彼女の住まいの近くにある患者会を紹介したが、あのあとそこへ行っただろうか。

いまどきのブログや手紙は別として、読んで違和感があるのは、話し言葉と書き言葉が混ざっているような文章である。内容が少し硬いものに、「ガッツリ」とあったり、「なので」で始まっていたりするのは、やはりちょっとしまらない。手を入れることはできても、本人が自覚しない以上、直してもらいづらい種類のくせである。

その文章を読んだ人が、まちがいなく理解してくれるかどうかに細心の注意を払って書かれた文章は、たいてい名文である。教育的なものは、そのような人に書いてほしいと思う。昨年亡くなられた解剖学者の藤田恒夫先生(新潟大・名誉教授)は、まさに名人だった。解剖の入門書が何十年も売れ続けているのは、エッセイストクラブに属するほどの文章力だけでなく、いかにして知識のない人にわからせるかに心を注がれた教育者としての姿勢ゆえである。

先生の入れる赤字の目的はいつもただひとつしかなかった。その修正をほどこしたことによって、読者がより明確にその内容を理解できるような赤しか入れない。その文章を読む人に、「必ずこの道筋をたどってきなさいよ」と、ガイドするような懇切丁寧な文章である。

ほんの少し言葉を補ったり、削ったりするだけで、みちがえるほど文章がわかりやすくなるのを間近に見るのは、新鮮な驚きでもあり、贅沢な勉強であった。
「文章は、すみずみまでわからなければなりません」
とおっしゃる先生は、ある時書いた私の比喩を、「おもしろいがわかりにくい」というひとことで、遠慮なく却下した。そんな先生にほめられた時は、天にも昇るほど嬉しかった。

読みにくい文章の代表は、よく意味のわからないカタカナの多用である。
――コミットする
――イノベーションを果たす(この動詞も少しおかしい)
どうしてもその言葉を使うのであれば、前後に少し説明を補うか、日本語も併記すれば、読む人にストレスがない。
――地域の活動に参加し、しっかりと人々に関わる、つまりコミットすることだ。
――技術や思考に革新(イノベーション) が必要となる。
などという具合である。

文頭にあまり多用しないほうがよいと思われるのは、
――言うまでもないことだが、
――何が言いたいかと言うと、
――取り立てて言うほどではないが、
次の文にスッと入ったほうがすっきりする。

書くことや話すことが得意な人は限られていると思うが、人に何かを伝える時、予想外の誤解が生まれる場合があるので、できる範囲で丁寧に書くに越したことはない。

英語圏の一流の科学者は、スピーチの際、こんな前置きをするという。
「私の話したことをあなたが理解できなければ、それは私の責任です」
謙虚とも見えるが、何が何でも自分の伝えたいことを、まちがいなく伝えたいという強い願望ともいえる。
「俺様の話を有難く聞くがよい。理解できないのはお前の責任だ」
という態度の人に、聞かせたい言葉である。

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