「宗教」はアブナイか

「そんなのは『宗教』だ」とか「『宗教』ってアブナイよね」という表現をよく耳にする。

テロ行為を命ずる教祖のいる宗教団体は、むろんアブナイものである。ただ、ある強烈な思いこみや信念を揶揄する意味合いでこの言葉を使って、自分はそんな怪しげなものとは距離を置いて賢く生きているのだというのなら、宗教以外の強烈な思いこみにも同じ態度で接するのが公平というものだ。

上手にお金を儲ける人を礼賛する時代にあって、人間の精神や地球や宇宙に素朴に関心をもつ人は、オカルトのレッテルのもとに十把一からげにされる。馬鹿にする人にかぎって、宗教やオカルトに対する知識を持ち合わせてはいない。かといって、スピリチュアルを前面に押し出す人も、ややバランスを欠くように見える。儒教道徳や流行の心理学や脳科学を熱心に勉強しても、人間が予測もつかない生き物であることが、どれくらいわかるものか定かではない。適度に批判精神をもちつつ、さりとて頭ごなしの否定はせず、ニュートラルに物を見る姿勢を保てるとよいのだろうか。

特定の宗教に傾倒する人にアブナイ印象をもったことはある。学生時代、護摩焚きで有名な宗派を熱心に信じている人がいた。彼女の言うには、自分が困った時に奇跡的なことが起こり、その宗教を信じるに至ったそうだ。聞けば、激しい痛みを伴う生理が、その予定日を大きくずらして受験に重ならなかったそうで、人はそんな理由からでも熱心な信者になるのだなと思った。

真面目な人で、顔つきは少し暗く、18歳にしては驚くほど体が硬かった。信心をすれば、人のもつ因縁を切ることができるという考え方に違和感を覚えた。そのような断定の根拠がわからなかったし、因縁を切るためにその宗教を信じるべしという理屈だとしたら、それも胡散臭いと感じた。

ちょうどその頃、『新人類と宗教――若者はなぜ新・新宗教に走るか』などという本も出ていた。年だけ増えても特に安定する気配もない自分から見ても、10代の若い時期に、人生とは何かを真面目に思い悩んで、自分のもっていきどころもわからなくなれば、正しいと思われる教えに惹かれるのは、無理もないことだ。責められるべきは、そんな若者を、意図をもって操作しようとする側である。

どんな人も「祈り」という行為と無縁でない以上、「信じる」という行為を、頭ごなしに否定できない。「死後の世界はある」と言った丹波哲郎を笑った時代もあったのに、人の魂の永続性を信じる人が今は増えている。死後の世界のあるなしは、どちらでもよいことだが、なぜそれを信じるのか、よく考えてみる必要はある。

信じるということを考えると、実際の宗教よりもっと括弧つきの宗教に近い扇動や洗脳的な情報が今も溢れているように思う。そのひとつがインターネット上の情報で、そのトーンと付和雷同の激しさは気味が悪く、SNSの威力は、まさにその洗脳性にあると感じる。最新だと誰かが故意に流した情報に精通したり、人気ブロガーの発言に過敏な人は、立派なネット教の信者に見える。

子どもの頃、ギリシャ神話やローマ神話の人間味あふれる神様たちが大好きだった。キリスト教の知識は、8歳の誕生日に贈られた犬養道子さんの『聖書物語』や、もう少し大きくなってから観た映画「ポセイドンアドベンチャー」でジーン・ハックマンが演じた神父の印象くらいしか持ち合わせていなかった。日本にも日本式の教会があると知っていたが、仏教について知る機会はなかった。

子育て中の姉が、子どもを叱るとき、「(悪いことをすると)神様が見ているよ」とよく言っていた。面白いもので、子どもが、なんとも言えない神妙な顔つきになった。自分を超えた大きな存在があり、その前ではごまかしがきかないと、子どもなりにおそれる気持ちをもっていたのだろうか。自然とじかに向き合っている人は、いやでもその感覚をもたざるをえない。すべてを自分の意志でコントロールできると考えるのは思い上がりである。この感覚をきちんともっていないと、自我が無駄に肥大した科学教の信者ができやすいように思う。

信仰や教会について、はっとさせられたのは、渋谷の小さな劇場で『炎のジプシーブラス』という映画を観た時だった。ルーマニアの地図にも載らない小さな村に、ジプシーたちのブラスバンドがある。譜面も読めない彼らの演奏は素晴らしく、世界中で演奏旅行をさせようと、ドイツ人の若者ヘンリがプロデュースする。

貧しい彼らが演奏旅行から戻って、最初にしたことが、荒れ果ててろくな十字架もない教会を自分たちの稼ぎで立て直すことだった。ヘンリは、先に学校をつくろうと提案したにもかかわらず、彼らは当然のことのように、誇らしげに自分たちの教会をきれいにした。教会とは、そんなにも大切な場所なのか、と、驚いた。宗教とは何か、知らないではすまされないと思った。実際に、多民族国家であるアメリカでは宗教の授業があるし、キリスト教系の学校に進んだ姪からも、宗教の授業を受けたと聞いた。

『人形の家』で有名なルーマー・ゴッデンの『台所のマリア』という童話には、ウクライナから来てイギリス人の家で働くさびしげな女中のマルタが登場する。彼女のさびしさの理由を聞いた二人の子供たちは、台所に「あるべき」硝子のランプと聖母マリアの絵を手に入れようと大奮闘する。それらの品物が本来のあるべき場所に整えられた時、マルタは顔を輝かせて祈りの言葉を口にする。信仰や信念が大きな意味をもつことを思わずにはいられない。素朴な女中が信じる宗教は、アブナイどころか彼女の心の大切なよりどころなのだ。

人が変わるための行動変容においても、信念(belief)という言葉が使われる。実際に、人は、自分が信じている通りに物を見て、行動し、好んで何かに閉じ込められたがっていることもある。それを取り去ることで、新しい生き方を手に入れることもできる。拒食症の患者が、キリスト教に入信して治ったと聞いて、人間とは面白いものだとつくづく思った。ここでも宗教はとくにアブナイ感じではない。敬虔なクリスチャンで立派な方もたくさんおられる。

「これが正しい」とか「これが賢い」と信じ込んで、その価値観を人に押しつけようとする人のほうが、自分を顧みることのない分、アブナイ人に思える。共感や承認を過剰に求めるSNSの世界が、心底苦手だ。

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