プロの医師、プロの言葉

医学部に基礎と臨床のあることも知らなかった頃、小さな出版社で最初に仕事をしたのは、解剖や免疫の先生だった。新潟発の「ミクロスコピア」の編集を手伝って基礎の先生方とご縁ができた。ミ誌は、藤田恒夫先生(故人)がすみずみまで目を通して丁寧につくられた科学雑誌で、研究の楽しさや感動がいたるところに散りばめられていた。根っから丈夫な私は、公私ともに臨床の医師とあまり縁がなかった。

学術もの以外で臨床の先生とつくった本は、司馬理英子先生の訳された『へんてこな贈り物』が最初だった。発達障害のひとつである注意欠陥・多動性障害(ADHD)について書かれたこの本は、アメリカでいまだにバイブルのように売れ続けている。
「この本はどうしても訳さなければいけないんです」と先生が熱く語ったのは、もうずいぶん前のことになった。

続いて、当時東京女子医大で500人の摂食障害患者を治療していた鈴木眞理先生の『乙女心と拒食症』をつくった。何でもないことから深刻な病気に陥ることは知らなかった。丁寧に患者さんを診つづけたまり先生ならではのリアルで実践的なこの本を発端に、精力的に著作を発表されることとなり、診療した患者数はすでに千人に達した。家族や患者さんを対象にした講演に先生を追っかけて行って聞いた言葉は、「食べてくれるならゼリーでもアイスクリームでも何でもいいの。そう言ったらみんな私のこと、ヤブだと思ったでしょ!」(会場で素直に「はい」とうなずいたお母さんがいた)。
代替医療についても偏見なく、「効果のあるものはよい」といった柔軟な姿勢をとられるのは、経験上いろんなものやことが効くことを知っているためだろう。

本は不思議とひとり歩きして誰かを連れてくる。尼崎の横田直美先生から『乙女心と拒食症』について好意的な読者カードが届いたご縁で、3年後に『乙女セラピー』という本ができた。驚くほど博識な先生のやや遊び心の勝った読み物だ。軽やかさの裏で、直美先生の主催する阪神女医ネットでは、テーマを決めて科を超えた実践的で真摯な探究がなされていた。一度見学した際、プロは常に勉強を怠らないのだと、背筋が伸びる思いがした。

日笠久美先生銀あんず先生はじめ何人もの素敵な女性医師を知った。ある方が「患者さんってすごいよね」と言われたときは、謙虚さもまたプロのプロたるゆえんかと、さらに感心してしまった。その後の仕事を通じて出会った医師の中には威張っている人もいたが、そのようなプライドと、私の知っている女性医師たちのプライドは、まったく種類の異なるものだった。

専門的な医学の書籍は、何十人もの分担執筆で事実のみ伝達する類のものが多い。そのため誰が書いても変わり映えしない。専門的なことを書いて面白いのは、断然単著の本である。精神科の中井久夫先生や心理学者の國分康孝先生の本など、30年を超えてなお多くの人に読まれ続けている。書き手がどういう姿勢で診療に臨んでいるかが明確で、専門家としての考えがよくわかるとともに、一般人が読んでも十分に面白い。著者の魅力を強く感じるためである。

編集だけ担当してお目にかかってはいない山本章先生(尼崎の老人福祉施設ブルーベリーの院長)の『経験から科学する老年医療』『経験から学ぶ老年医療』(いずれも中外医学社)も、広く一般に読まれないのが惜しまれる本である。高齢者施設の感染症、薬の功罪、コレステロールへの誤解、プラセボや祈りの効果まで、実臨床の経験と相当数の文献や新刊本も読みこなしたうえで、きわめて説得力ある論が展開されている。総合診療医育成の重要性もこの方の本で知った。

面白くて手帳にメモしたフレーズがいくつか。
「太れるものは幸いなり(肥満学会で発言して顰蹙を買った言葉)」
「インパクトのあるキャッチフレーズに弱い(哲学的思考のない)アメリカ人の気質」
「(看護教育について)critical というのは他人に向けられがちであるが、reflectionは内省、熟慮で自分の中で深く考えることである。……批判のかなりの部分が医師に向けられがちではあるが、彼女ら、彼らが医師と対等の立場に立つときには2つの『そうぞうりょく(想像力と想像力)』に基づく行動が自らの地位を高める重要な要素となることを、医師も看護師も認識して、教育に力を注ぐべきであろう」

まともな医師は平静だ。なぜなら彼らはプロだからである。目の前のことを論理的に説明し分析することなど造作もない。ただ、プロの医師は忙しすぎ、各所への気遣いもあって、自分の意見をあまり口にしない。医師の手による過激な医療本に疑問を感じても、わざわざそれを文字にすることもない。しかし、まともな人のまともな言葉が聞きたい。しごく淡々とプロの仕事をする腕利きの医師こそ、もっと語るべきである。そう思って、横田直美先生と日笠久美先生に寄稿をお願いした。

久美先生の「何でも診る科」という表現にプロの矜持を強く感じる。多くの医師が「自分だって何でも診る」と言うかもしれないが、たまに診療所を留守にするときも、とくに悪化する患者さんが出ない久美先生の「でき」のしあがりは、きっとちがうはずだ。「時代がようやくわれわれに追いついてきた」という言葉は、山本先生の「総合的視野を欠いた専門分化は正しい医療を損なう」とぴったり符合して爽快である。ホリスティックな視点があるのだ。

直美先生の病気体験にはまだ続きがある。せっかく重病になった機会を無駄にはしないところもまたプロである。一度「医師という仕事をなぜ続けているのか」、と尋ねたことがある。ひとこと「人間の不思議」と答えた。その不思議を前にして、ただひたすら謙虚に学び、病気という現象を通じて常に人間について考えている。こんな方々の言葉を、少しずつでも残していけばどんなにか人の役に立つことかと思う。

This entry was posted in ことば・詩・音楽, 人・場所・会話, 心・からだ, 音緒・ねお・NEO. Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です