「詩とメルヘン」とやなせさん

姉が買ってきた「詩とメルヘン」は、夢のような雑誌だった。

見たこともないくらい大判で、表紙には鮮やかなイラストが描かれていた。巻頭の言葉は、最後の一行が「ところであなたは買いますか?」で終わることに決まっていた。回を重ねるごとに、「ところであなたは……」と、みなまでいわなくなったのがおもしろく、姉が買わなくなってからも、毎月楽しみに買っては読んだ。

ちょっと素人くさくてあまり上手ではない詩もよく取り上げられた。うまくないところになんともいえない味があり、心に残った。

昨年、やなせさんが亡くなられ、今年になってから『だれでも詩人になれる本』を懐かしく読んだ。印象深かった菅野さんの「お地蔵さま」という詩は、どこかの同人誌で発見したものを、頼んで自身の雑誌にとったものだというエピソードを知った。その詩がよけいに好きになった。

何も知らない頃に出会う先生は大切だ。詩は、難解なのがいいとはかぎらない。下手でも自分の言葉で語るのがいいというやなせさんの影響で、借りてきた言葉を無理に使う必要はないと思うようになった。それに童話をたくさん読んで大きくなった子は、人の見かけにだまされない。カエルが姿を変えた王子だったり、浮浪者の背中から羽根がはえてくることはよくある。その分現実的な損得勘定は不得手かもしれないが、生きる上ではささいなことだ。

「詩とメルヘン」で、プレヴェールやアポリネールを知り、八木重吉や石垣りん、高田敏子の詩と出会い、安房直子の童話、味戸ケイ子の少し気味の悪いような幻想的な絵、東くんぺいの切り絵と魔法ばなしを知った。阿久悠や井上陽水の特集についていたさびしげな女性の絵では、いつもの漫画とは全然ちがうイラストレーターやなせたかしに触れた。

早逝した詩人のブッシュ孝子の『白い馬』にある「凡人なる凡人は」という少しユーモラスな詩は、とくに私のお気に入りだった。

凡人なる凡人は

凡人なる凡人は 自分が凡人ではないと思っている人
非凡なる凡人は 自分が凡人であると知っている人
非凡なる非凡人は 自分が非凡であると知っている人
凡人なる非凡人は 自分が凡人であると思おうとしている人
この順に数は少なくなる

言葉は、いくらたくさん頭に入れても、ちっともかさばることのない荷物である。散歩途中の風景で、好きな俳句や短歌を思い出すと、一日きげんよく過ごせる。

寒い日には寒い日の言葉、雨の日には雨の日の言葉が、いつでも口をついて出るように、どんな日もきげんのよい日になるように、まだまだ仕込みは欠かせない。

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