映画「かみさまとのやくそく」を観て考えたこと

渋谷のアップリンクでこの映画を観たのは、まだ寒い2月のこと。午前10時の回ぎりぎりに出かけた一度目は、満席で断念。5日後、二度目のトライで、なんとか観ることができた。

かみさまとやくそくしたのは、誰だろう? それは、生まれてくる子どもである。何をやくそくしたの? 自分の使命を果たすことである。子どもは、自分で選んだ親のもとに生まれてくる――そういう話を何年も前に聞いたことがあった。苦労の多い複雑な家庭でもそうなのだろうか。その答えをこの映画が明かしている。

方法はいたってシンプルで、生まれてくる前の記憶をもつ子どもたちのインタビューをもとにして、ひとつの仮説を提示している。『ママのおなかをえらんできたよ』(リヨン社)などの著書をもつ医師の池川明氏は、胎内にいた時や生まれる前のことを語る何人もの子どもたちに話を聞いている。北海道から沖縄まで、その全員が口をそろえ、「自分はお母さんを助けるために、自分でお母さんを選んで生まれてきた」と語る。

前日に観た村上和雄さんのドキュメンタリー映画「SWITCH」では、「いのちの親」の話が出てきた。親のない人はおらず、その親にも親がおり、という具合にさかのぼった先には、一番おおもとの「いのちの親」という存在がある。親の願いはただひとつ。子どもの幸せである。それと同じに、子どもも本来親の幸せを望んで、自分をこの世に送り出しているらしいのだ。

下記の絵は、生まれる前に自分のいた場所を、ひとりの子どもが描いたものだ。大仏のようなかみさまがいる天国には、たくさんの赤ちゃんがいて、大きなテレビがある。そのテレビに映し出されたおかあさんを見て、その人のところに行きたいと思った子は、そこへ通じたすべり台に乗って、するするとおなかの中に入るのだという。ある保育園では、子どもどうしが、生まれる前はこうだったよね、などと世間話をしている光景もあるそうだ。

kamisama
映画には、ふたりの男の子がいずれも天国のことを覚えているという母親が登場した。そのうちのひとりには、ドイツでの前世の記憶があり、ボタンのついた衣服を怖がって着ない。理由は、ナチスの収容所で軍服を着た男におさえつけられ、窒息させられたとき、目の前にあったのがボタンだったためだ。「収容監」などと、幼い子が知っているはずのない言葉も口にする。その上の子どもは、母親が出産前に住んでいた住まいのことも知っている。胎内からは、へそを通して外の景色が見え、衣服は関係がないようだ。

女性にとっての妊娠と出産には、さまざまな思いがつきまとう。何の問題もなく幸せに健康な子どもを授かる人もいれば、苦労して子どもを育てなければならない人もいる。その一大事を、生まれてくる子どもの意志が成立させているという話を、救いのように聞く人もいれば、信じたくない人もいるかもしれない。

それでも、赤ちゃんを見れば、言葉を話さなくても、何でもわかっているような賢い顔をしている。「赤ちゃんは天才だ」と言ったのは、ソニーの創業者の故・井深大氏だった。知的障害をもつ娘さんがおられた氏は、幼児の能力開発に力を入れ、鈴木メソードで有名なバイオリンの鈴木慎一氏などとも交流があった。未熟なはずの赤ちゃんの才能は100%であり、成長するにしたがって、それが減っていくという説を、教育熱心な人が英才教育と受け取り、会の方向が混乱した時もあった。能力開発とは、早熟な天才をつくることではないはずだったが。

生物学的に胎内記憶を語るならば、胎児には、前世どころか四十億年も前の記憶がある。ゲーテの系譜を汲むヘッケルが、「個体発生は系統発生を繰り返す」と述べたように、胎児がおなかの中で魚類から爬虫類の姿をたどって進化していることは、解剖学者の三木清の『胎児の世界』でも知られる。よってこの映画は、いわゆる「スピ系の人」などでなく、ごく普通の人にとって興味深い内容である(「スピ系の人」は、「何でも理屈で説明できる教」の信者とよく似て、私も苦手だ)。私自身の身近に、ゼロ歳の時の記憶がある人がおり、胎内記憶のある人がいることから見ても、とくにスピリチュアルに特化しないドキュメンタリーだと思う。

親は子どもを、何もわからない存在と決めつけるのではなく、その声に耳を傾け、その子が本来あるべき姿で生きることを手助けすればそれでいい。時々、よかれと思って一生懸命子どものために何かする母親がいるが、子どもが大きくなって自分の言うことを聞かないと、それが恨みになる。そもそも、その何かを子どもがしてくれと頼んだのでもない。お母さんに幸せになってほしくて生まれている子どもにとっては、何もしてくれなくても、ハッピーな母親のほうがよほど嬉しいのである。

映画には、自身も胎内記憶があり、胎児の通訳ができる「たいわ士」の南川みどりさんという女性も出てくる。まだ自分の思っていることを話せない小さな子どもをあやして、親と仲立ちすることもする。子育ては、母親に大きな不安を与えることの連続である。その母親の気持ちを楽にし、子どもも楽にする大きな役割を果たす人である。彼女は、大人を対象に、自分の中の小さな子どもを両手にすくって、じっと見つめ、会話をするというセラピーも行っている。自分自身をみつめるために、自分の中の子どもをみつめ、その声を聞き、心を楽にしていく人たちの姿が映し出される。

中に、こんな質問もある。虐待を受けて養護院に入る子や、両親が離婚する子どもは、誰を幸せにしているのか。こんなふうに答えていた。養護院の人たちを幸せにしているのかもしれないし、「お父さんは蝉みたいなものだ」と言う子どももいる、と。子どもが幸せにする人の範囲も広いのだろうか。親と縁がなくても、また別の縁をもって、誰かを幸せにするのだろうか。

よくみられることとしては、妊娠中の母親のストレスの強さとお産の苦痛は一致しているという。お母さんがいつも落ち着いていると子どもも安定する。わが子のからだも知能も心も、健康に発達してほしいと、親なら誰もが願うだろう。大きくなるにつれて、願ったようにならない時、「なぜうちの子はこうなんだろう」と、悩むこともあるだろう。それでもその子のペースやリズムを、できるだけ尊重したほうがよい。

三木清の『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館)に、さくら・さくらんぼ保育園の斎藤公子さんが、排泄について興味深い文章を寄せている。小さな子のオムツがとれて排泄を自立させるために斎藤さんたちがとった方法は、オマルにすわらせ「出るまで待とう」作戦をとったり、国立の能力開発研究所ご推薦のオペラント条件づけで、鳩か犬のように訓練するやり方とは根本的にちがっていた。知的障害があり、四歳でようやく「ママ」が言え、七歳になってもおしっこの自立ができなかった子を、ひとことも叱ることなく、やさしい言葉をかけ、気長に下着を取り換え続けた。この子は、言葉が豊富になってきた頃、あるとき、自然と自立できたという。てまひまがかかる。それが子育てであり、効率や損得とは相容れない世界である。

たいわ士の南川さんは言う。
「子どもが問題だと思うことが問題なんです」
子どもの欠点が目につくとき、親は子どもを自分から切り離している。それでは子どもは幸せにはならない。親がよかれと思って与えるものも、必ずしもその子本来の能力を伸ばすとは限らない。親にできることは、自分の子どもの足らざるを数えず、ただ信じ続け、待ち続けることだけではないか。その心が、子どもを安定させ、その子らしく伸び伸びとさせる。

効率や損得に過剰な価値をおく親には、思惑をみごとにはずれた子どもが生まれることがあるかもしれない。もしそうなら、子どもが親の生き方に対して、あるヒントをくれているにちがいない。親が子どもから教わることは無限である。子どもに起きるできごとを通じて親も成長していくならば、子どもが親を助けるためにこの世に現われるというのは、やはり本当のことなのだと思う。

「かみさまとのやくそく」公式サイト
http://norio-ogikubo.info/

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