「宝のひょうたん」と「私」(2)

ワン君のように、ほしいものや能力を手にすれば、自分がよいほうに変わる、と信じる気持ちには少し共感できる。自分に欠けている部分が埋まることで、自分はより完全に近づき、幸せな気持ちになれるのではないかと期待するのは自然な感情だと思う。

しかし、何かを手にしても、ただ身にまとうアクセサリーが増えただけで、自分が本質的によくなったと実感できなければ、それは幸せな状態だろうか。オーケストラの指揮者のように、チームをまとめてひとつの仕事をする場合は別として、個人が別の個人の仕事を横取りして自分の手柄にして、心から晴れ晴れと嬉しいのだろうか。

誰にもさとられないようにうわべをつくろっても、所詮は盗んだものである。世間を騒がせるほどの剽窃でなくても、小さな盗みはあちこちで意味もなく行われている。本人がうまくやったと思っても、そのような行為が重なっていくことは、本当のその人を無意識に傷つけることになりはしないのだろうか。

人の書いたものを自分のものとして無邪気に使う人に会うと、中身が空洞の人形が外側に何層ものペンキを塗って大きくなったつもりでいるように見える。まがいものに輝きはないし、張りぼてはいつまでたっても張りぼてのままである。その人も、心の奥ではそれに気づいているのに、気づかないふりをしているかのようだ。

本当の自分は、もっと素晴らしいはずだ。それなのに、何かのまちがいで本来出せるはずの力が出せずにいるのだ。そんな感覚は少しくらい誰もがもつものだろう。人が変わりたいと願う感情には、そんなもどかしさがあるように思う。しかし、人が驚くべき変化をとげる瞬間というものがある。例えば、催眠によって物理的にイボが消えることがある。これは神秘でも何でもなく、人があるトランス状態に入って生理的に変化し、その変化が引き起こす現象である。

自律訓練法や内観、座禅、長距離走などは、すすんでその状態に入る方法であり、自らが自己と思うものが取り去られることによって大きな解放をもたらす。あるいは、同じくらいドラスティックにエゴを破壊する役割を果たすものとして、病気や災難も挙げることができるかもしれない。それまでと同じ自分でいては、とうてい越えられない困難が意志と無関係に目の前に降ってくる状況は、自分を決定的に変える貴重な機会でもある。あるいは、より自然な状態に自分を戻してくれる役割をもつともいえる。

本来の自分に出会うために、一度表面の自分をべりべりと剥がして、中から自分の生地のようなものが現われてきた時、自分がくっつけたアクセサリーは、はじめから必要なかったことがわかる。ちょうど剣道のかかり稽古で、精も根も尽き果てたとき、それでもなお一本の面を打つ力が残っていて、その面がびっくりするくらい伸び伸びと美しいのと同じように、何もない自分にもしっかりと力が残っていることに気づくのである。不安は消え、深く息をつけるような静かな心になる。人が本質的に変わる時とはそういうものではないだろうか。

ワン君は、最後に「宝のひょうたん」の秘密をみんなに打ち明ける。みんなの前に出したひょうたんは、もう声も出さなくなった。便利なひょうたんを捨てたことで、彼はいろんな悩みからようやく解放される。ここで目が覚め、すべてが夢だったと知るのは、とても象徴的だ。本当は必要のなかったものを捨てることが覚醒につながると教えてくれるような話である。

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