「宝のひょうたん」と「私」(1)

最近久しぶりに、「宝のひょうたんの秘密」(昔の題名は、たしか「宝のひょうたん」までだった)を読み返した。この話は中国の話で、とてもこわい話だった記憶があり、どうしても読みたくなったのだ。

hyoutan

ワン少年は、願いをなんでもかなえてくれる宝のひょうたんを手に入れ、誰にも言わず秘密にすることを約束する。それからほしいものはたちまち目の前に現れ、苦手な試験でもみるみる正しい答えが書かれて、とても楽ちんである。とはいえ、ワン君はすぐに困った事態に陥る。願ったわけでもないのに、ほんの少し心に浮かんだ物やことが、現実のものとなってしまうために、部屋中に物が溢れたり、そこにあるべきでないものが、突然出てきたりするのである。宝のひょうたんのくせに、でたらめに物を出したりするのは少々都合が悪い。

会いたい友達すら一瞬で現れるに至っては、それがニセモノではないかと疑い始める。世の中のものが、だんだんニセモノか本物かの区別がつかなくなってくる。ついには、世界で本当に生きているのは自分ひとりで、家族も友だちもすべてまぼろしであるかもしれないとまで思うようになる。

子どもの頃、もし本当に友だちや家族が現実には存在せず、自分がこの世にただひとりぼっちだとしたらどうしよう、と悲しくなったのを思い出す。そんな目で見れば、実際そうも見える。「この世はすべて幻」と言った岸田秀の本や、人はすべて変性意識の中で洗脳状態にあるという説を読むたび、大人になった今もこのお話が思い出される。自己啓発本によく「世界は自分の心がつくっている」と書かれているのは、物事は考え方次第というよりも、自分以外のものは実はそこにないのだという意味ではあるまいか、などと勘ぐったりもする。

「宝のひょうたん」がさらにこわく、また面白いところは、ワン君のものになった品物はすべて、どこかから盗んできたものだという点である。テストの答案すら、別の人の文字ごとその答えがそこにコピーされる。自分が持っているつもりのものは、能力も含め、すべてどこからか借りてきたものである、といわんばかりだ。仏教的な世界観なのだろうか。

楽をして何かを手に入れたい人には、宝のひょうたんはまことに便利である。しかし、ワン君がつまらないのは、何かをつくるときの苦労や楽しみのプロセスをすべて奪われてしまうことだ。ひょうたんの意見では、主人はそんなことをする必要はない。そのくせ、ひょうたん自身は、「仕事をしなければ、腕をみがくこともできない。そうなれば、腕がさびついてしまう」と言っては、盗みの腕とスピードを向上させていく。これは、ある意味では、成果だけを手に入れて喜んでいる人種への批判とも見える。

ほしいものが手に入って幸せではない。物事が思い通りになって、かえって不自由で孤独である。ワン君のような人は、意外にあちこちにいるのかもしれない。

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