言葉と文化

昨日、久しぶりに、歴史と文化を学ぶ会の結城順子さんと橋爪雅彦さんにお目にかかりました。私が出版した『あなたがはじまる般若心経 ver.1』への感想など頂戴しながら、話は教育と文化のことへ広がりました。

小学生から英語を教育することが危険であることは、鳥飼久美子さんをはじめ多くの識者の指摘するところです。ふと、友人からずいぶん昔に聞いた面白い話を思い出し、お話ししました。

 

大連第三中学校での同窓の友・奥一郎君は、同時通訳者として活躍され、米国大使館にも勤務した人です。英語が相当堪能であったことは言うまでもありませんが、彼を悩ませるものは実は語学ではありませんでした。朝のエレベーター前でアメリカ人たちが談笑している輪の中に、どうしても入ることができないというのです。同じ文化圏で育った人たちと自分の間に共有できるものがないことが、何でもない会話を不可能にしていたとのことでした。

 

私の話を聞いて、海外での日本企業の現地研修などに経験の深い橋爪さんは、「その通りです。英語の問題ではなく文化の問題です」と言って、次のような話をしてくれました。

 

アフリカである企業の研修に立ち会っていた時のこと、日本人の所長が、べらんめえ口調で話すのを、横浜の大学を出て日本語のよくできるセネガル人がフランス語に訳し、スタッフに伝えました。所長が言うには、「おい、よく聞け! こないだ油売ってた奴は、あとで油しぼられるからそう思え」。セネガル人の青年は、目をパチクリさせて、はて、どう訳したものかと、橋爪さんに助けを求めました。橋爪さんが標準的な日本語に言い換えて、所長の言わんとする内容を伝え、なんとか通訳ができたそうです。

 

また別の時に、所長が、「おい、日本人技術者には、自分の十八番、オハコってものがあるんだ。お前たち、十八番、もってるか?」。またまた通訳者は悩みます。ナンバー18とは、いったい何なのだ??? 所長は、「俺は学者先生じゃない。だから俺の日本語は難しくない」と威張っていますが、果たして難しいのはこのような慣用的な表現であって、標準的な文例パターンをいくら覚えても、現場では通用しないのです。

 

話を聞いて、今度は、「そういえば、警察に誰かを迎えに行ったとき、『腕下がいる』と言ってた人がいましたね」と笑う結城さん。何でも日本語のできる外国人が何かの事情で警察のご厄介になっていたとき、刑事がちょっとしたワイロを要求したのを「袖の下」と言おうとして、まちがって「腕下」と覚えていた模様。「日本の着物は袂が長かったからそういう表現ができたのではないか」と橋爪さん。

 

核家族で育った小さな子供が、「鼻の下が長い」などと聞いて「何センチ?」と尋ねたという笑い話もあるそうです。そのような日本語力で小さなうちから英語を学ばせることが、どんな結果をもたらすか、ちょっと考えただけでもわかりそうなものですね。

★歴史と文化を学ぶ会  http://r.goope.jp/reki-bun/free/gaiyou