峠の時代の〈いのち〉と富の話(2) 清水博氏講演・「親鸞仏教センターのつどい」にて

生も死も〈いのち〉のドラマに力を貸す
生き物から居場所へ〈いのち〉を与贈すると、居場所のシステムが、自己組織的に生成します。ここに〈いのち〉のつながりが生まれ、居場所の〈いのち〉が今度は生き物へとプレゼントされます。これは、自己組織が進んでいくことによって、「縁」の世界が拡大しているためです。このしくみによって、〈いのち〉のドラマの生成が進行していくのです。

地球が、生き物の〈いのち〉の居場所であることは先にも述べました。地球における生き物のシステムは、内在的な縁の世界に受容され、縁の世界を広げて、新しい〈いのち〉の与贈を生成することによって、〈いのち〉のドラマを進める歴史的な推進力をつくっているとも言えます。

〈いのち〉とは、存在し続けようとする能動的な活きです。しかし、そこに死がなければ、存在し続けたいばかりで、〈いのち〉の循環はできなくなります。ひとつの〈いのち〉は終わって、また新しい〈いのち〉が生まれる。こうして、〈いのち〉は生き続けることができるのです。

競争原理から共存在原理へ
ここで考えなければならないのが、強者の戦略と弱者の戦略は異なるということです。居場所が広い時は、競争という強者の戦略が有効でしたが、今のように世界がつながって居場所が狭くなってくると、弱者の戦略が必要になります。弱者の戦略とは、共存在の原理です。つまり、弱者の切り捨ては未来の切り捨てにつながります。

共存在原理とは、死をベースにした内在的世界によって成り立つ個体の生を超えたドラマであると表現できます。ここで、私が撮ってきた写真をお目にかけましょう(正面の画面に写真が映し出される)。

【雑草の写真】これは、駐車場の溝から生えてきた雑草です。溝に木の葉が落ち込んで、そこに種が飛んできて芽生えたのでしょう。草が生えてくるところのベースに死があって、「生と死が共存在してるんじゃないの?」と気づいたのです。

人工的なところは、植物が分けて植えられていますが、自然なところにはいろんな植物が共存在しています。よく見ると、どこかに死があることに気がつきます。なぜもっと早くこれに気がつかなかったのだろう、植物に見られる内在的世界の共有ということに、もっと早く気がつけばよかった、と思います。

【プランターの写真】こちらは、自宅でたまたま撮った写真です。もともと植えてあったカエデが枯れて、放っておいたらいろんな草が芽生えてきました。カエデもほかの植物もちゃんと一緒にひとつのプランターに仲良く生えています。そして、カエデは秋になるとちゃんと紅葉するのです。ほかの植物も元気がないというわけではない。何の手も加えていないのに、それぞれが自然に全体の秩序を形成して、共存在しています。冬になって、カエデの葉が落ちました。死んだカエデはどこに行ったかというと、ちゃんと死をベースとした共存在に参加しているのです。

地球の上でも、これと同じ共存在があるのでしょうか。これは宿題にしておきましょう。

居場所を失った福島の人たち
小さなプランターの中に、内在的世界の共有と充実を見ることができます。豊かに生きるということは、けっしてお金をたくさんもっていることではありません。そのことは、百の言葉より植木鉢をもってきてみんなで観察して話し合えば自然とわかることではないでしょうか。

「生命は尊い」と教えても生徒は理解できません。その根拠はどこにあるか、科学の論理では説明できません。なぜなら生命という言葉は名詞であって、内在的世界を排除しているものでしかないからです。

ここでひとこと言わせていただきたいと思います。福島の原発被害の深刻さです。福島の人たちに会いに行くと、まるで座敷牢に閉じ込められたかのようです。居場所を失い、共存在を失った人の悲しい声を、この耳で何度も聴いてきました。しかし、今の日本でそのことが問題にされていません。〈いのち〉の自己組織の場を失うことが、人間にとってどれほどの打撃であるか、もっと理解されなければなりません。

富としての〈いのち〉の充実
最近話題の本に、「金持ちは金持ちで、貧乏人は貧乏人であり続ける」と書いてありました(注)。資本主義経済の重要な柱は民主主義だと言うけれど、誰がどれだけ選挙に行くのですか? 投票率はたかだか20か30%にすぎません。民主主義を信頼しているのでしょうか。

われわれはすでに多数決原理に疑問を持ち始めています。本当の富を考える時期に来ています。マイノリティが共存在できない世界は危険です。福島で今、どういうことが起きているか。孫と裏山に行けない、庭先にも出ることができない、もう我慢できない、という状況に人々は耐えています。

復興支援には、シナリオが必要です。ドラマに自分が登場するためには、自分のシナリオがいるのです。地球は、宇宙の中の〈いのち〉の居場所です。その居場所を持続させるシナリオであれば、意義を内側から感じられて、活動も持続します。〈いのち〉の自己組織ができなければ、本当の意味での復興はないと思います。

ひとつの思想がシナリオになるには、「道」が必要です。イエス・キリストは、「私は道である」と言いました。一番困っていることは、地球という居場所に道が見えない、見ようとしないことです。たくさんの人が集まって語り合い、与贈し続けることが必要ではないかと思います。

いい国、豊かな国とは、〈いのち〉の充実のある国のことで、決してGNPの多い国ではありません。求めるものは〈いのち〉なのだ、私たちの最後の富は〈いのち〉なのです。〈いのち〉の世界は深いんだ、大きな活きがあるんだ、ということを認識して、〈いのち〉を振り返る責任が、大きな天災に見舞われた日本にはあるのではないでしょうか。

峠の時代の〈いのち〉と富の話(1) 清水博氏講演・「親鸞仏教センターのつどい」にて

注 トマ・ピケティ『21世紀の資本論』(みすず書房)を指すと思われる。