アイマスク体験

A4の白い紙の中心に、小さな丸を書く。続いてその丸を、少し大きな丸で囲み、その作業をさらに何度か繰り返す。

誰にでもできそうなこんな単純な作業が、視覚を遮断した状態で行うと、一瞬にして誰にもできない作業に変わる。サインガイドという枠を使っても、満足に文字を書くのは難しい。「偏軌」といって、通常はどちらかに偏ってしまう。注意して紙をまっすぐにしておかないと、斜めに書いてしまったりもする。

しかも書けたかどうかの確認ができない。一度でもペン先を紙から離せば、前に書いた文字や線の場所はわからない。視覚障害者の使う白杖も、ちょうどそれと同じであるという。

先週末、徳島県に拠点を置くWell-Being主宰のガイドヘルパー研修を受講した。障害が重複するとどうなるのだろうと思ったことがあったが、初日にNHKのEテレ「バリバラ」という番組の映像で、全盲で聾唖のご夫婦の生活を見せてもらった。全盲聾の人は、全国に2万3千人いるという。昔仕事で繰り返し使っていた「ノーマライゼーション」という言葉に、実際はどれほどの意味とむずかしさがあるか、ようやく少しわかった気がした。

病気や障害のある人もない人も、老いも若きも、みんな「ふつう(normal)」に生活できれば、どんなに素晴らしいことだろう。しかし、そのために整備されねばならない条件はいろいろある。

とくに困りごとのないまま長く生きてきた私は、「会話をしたい時はテーブルを叩く」ことを合図に、互いの手を触り合って相手の言葉を知る「触手話」を知らなかった。奥さんは自分で料理をし、夫婦で外出し、阪神ファンの夫は試合の結果を知るのが楽しみで、マジックを仲間に披露したりもする。もちろん、支援の手とそのような場があってこそできることである。しかし、障害者という少数派について、一般人は抽象的にしか知ることがない。まず、「知る」ことがなければ、ノーマライゼーションに意識が向くことは難しいと思った。

視力を失う過程は人によって異なる。先天性の病気が原因のこともあれば、事故などによる中途失明もあり、原因としては、多い順に緑内障、糖尿病性網膜症、網膜色素変性、黄斑変性などがある。糖尿病から毛細血管を傷めて失明する人は、60代以上の人に多くなる。

受講生の中に、実際に視覚障害者に接している人が数名いたために、パソコンを使って議事録を書いたり、ホームページのメンテナンスを行う覚障害の人がいるという話を聴いた。

驚くべき能力のある視覚障害者の映像も見せてもらった。見えていないにもかかわらず、聴覚によって脳の視覚野に情報が入力され、イメージをつくることのできる男性が現実に存在する。聴覚や触覚、嗅覚、味覚が、欠けている視覚を補う貴重な情報源となっている。

アイマスクをつけて歩くのは、予想以上に難しかった。最初に伝い歩き、次に顔の前面で手を左右に振って障害物を確認しながら歩く方法、同じくからだの下方を手で探る歩行、上下を同時に確認する歩行、そして白杖をもって歩いてみる。どの人もみごとなへっぴり腰になってしまう。見えていない状態で一歩を進めることは、こんなにも怖い。

アイマスクで外に出て、ガイドヘルパーの腕に触れながら、細かく道の様子の説明を受け、一緒に歩いてみた。さきほどの不安は、一転、安心感に変わる。ペアを組んだ方が実際の援助職についていたことから、すぐれた声かけをしてくれたためだが、「ガイド」とは文字通り案内人であることがよくわかる。見えていないのにひとりで歩ける人は、かなり訓練を積んでいると思う。

細い道から大きな車道に出るまでをガイドした時、ペアを組んだアイマスクの人から、車の音が一気に近づいて恐怖を感じると言われた。もうすぐ大きい道路に出ることを、事前に説明して不安を除くべきだと注意を受けた。自分にとって何でもないことが、相手にとってどれほどのストレスになるかに思い至らないようでは、ダメガイドである。

昼は、各自アイマスクで弁当を食べた。自分でつくって詰めてきたのに、弁当箱が深いためにおかずがとりにくい。ご飯を箸で食べることも、思った以上に難しい。あとで見ると弁当箱の外にいろいろこぼしていた。本当は文字と同じくあとからの確認ができない。

昨秋、介護職員初任者研修の勉強をした時に、「自分にとっての『ふつう』は通用しない」と習ったのを思い出した。目の見える人どうしでも、同じ日本人どうしでも、実際のところ相手のことはわからない。何ごとも言葉に出してひとつひとつ確認し、説明し、希望を尋ねることからお互いを知っていく。

障害者や高齢者に限らず、日常のコミュニケーションでいつもこれに注意できていれば、もう少し世の中は住みやすい場所になるのに、と思う。