キリスト教とスピリチュアリティ―― 日本スピリチュアルケア学会基調講演を聴いて

9月6日、日本スピリチュアルケア学会2014年度第7回学術大会にて、副学長の川中仁氏の基調講演と、作家の柳田邦夫氏の記念講演を聴いた。「スピリチュアリティ」という言葉はむずかしいが、人間の本質において大切なものと考えると非常にシンプルで、流行の「スピリチュアル」という言葉が、オーラや言霊、精神世界、占いなど混沌としているのとは明らかに異なる。

人間の精神性に目を向けること自体は何もおかしくないが、商業的な「癒し」ブームや、その種の考えに傾倒する人特有のメンタリティがあるために、「スピ」と聞くと反射的に「オカルト」と批判する人もいて、こちらも多分に独特である。どちらでもないニュートラルな態度で、いろいろな現象に相対してよいのではないだろうか。

心理学者の故・河合隼雄氏も、著書『宗教と科学の接点』の中で、次のように述べている。
「ある現象が自分たちの今もっている理論に合わぬから、偶然とか非科学的とか言ってしまうことこそ問題である。あることはあることとして、われわれはそれを研究しなくてはならぬ。ただ、どのような態度でそれに向かうかが重要なポイントとなるのだ」(P42)。

川中氏は、講演のタイトルを「カトリックのスピリチュアリティ」としながらも、「キリスト教一般とカトリックとのちがいを拡大する必要はない」と述べる。また、とくに死後の世界については論じられず、死後の魂の存在を肯定する「心霊主義(スピリチュアリズム)」とここでいう宗教的な「スピリチュアリティ」には関連はなさそうだった。柳田氏の講演では、人間という存在と、そのとらえ方や姿勢を「スピリチュアリティ」と表現していた。

「スピリチュアリティ」は、宗教研究の一分野として、「霊性」の訳があてられた。この言葉がまたむずかしく、説明※があってもすんなりとは理解しづらい。キリスト教の霊性においては、神を理解するにも、単に知識をもつだけの知的な理解ではなく、自分の存在を通して神を体験的に知ることが重要であり、それによって自らの生き方に根本的な変革がなされることが重要な課題であるようだ。この「体験」には、キリストの復活が大きくかかわってくる。

宗教上のスピリチュアルムーブメントは、20世紀後半のカウンターカルチャーに代表される。伝統宗教の考えや行動が、現世的なものにのみ固執し、他者の苦しみに無関心であることに反対する立場で、このスピリチュアリティは、偏狭な宗教に代わって登場した「非宗教的な健全な視野」といってもよい。

キリスト教のスピリチュアリティは、二つの中心をもつ。ひとつは、超越的な他者である「キリスト」であり、もうひとつは、共同体としての「教会」だ。キリスト教では、私とあなた(神)がかかわりをもつ。キリストは、パーソナルなかかわりの対象である。同時に、神とかかわりをもつ人は私だけではない。たくさんの人がキリストとパーソナルにかかわりをもち、それらの複数の人が集まって、教会という共通の場を形成する。つまり、「キリストがいて、教会がある」ことが、キリスト教のスピリチュアリティの本質的な要素となる。

●キリスト中心性
キリストの捉え方には、「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」の2つの面がある。
イエスの生涯は、横一本の直線上に、①先在(誕生前)、②受肉(誕生)、③十字架(死)、④復活、⑤再臨の5つの点で示すことができる。ただし、②受肉から③十字架までが「生前のイエス(歴史のイエス)」であるとして、新約聖書を単に「ナザレのイエスが生まれ、生きて、死んだ」という歴史的事実を述べた書物と理解するのは誤りで、重要なのはむしろ、④復活から⑤再臨までは「復活のイエス(信仰のキリスト)」である。

「歴史のイエス」とはどういう人か。常に弱く貧しい者の側に立つ。超人的な力で治すより、イエスという存在に出会ったことで、人は解放される。弱き者の「ために」という前置詞ひとつですべてが表されるようなシンプルな生き方をした人である。

これに対し、復活後の「信仰のキリスト」とは何か。まず、復活はただ生き返ったのではない(それは「蘇生」である)。磔の刑に処せられたイエスが、再び生きて現われた。それを目撃した人は、「死んだイエスが生きている」ことを体験的に知って大きな影響を受けた。つまり、④復活と⑤再臨が、キリスト教のスピリチュアリティのきわめて重要な部分となる。また、新約聖書において、ヨハネによる福音書に「イエスはキリストである」と記された一文は、ギリシャ語の「キリスト」がヘブライ語の「メシア(油を注がれた者、救い主)」を表すことをを考えると、深い意味があるという。

●教会中心性
「生前のイエス」に付き従っていた弟子集団は、実は、イエスが捉えられ十字架にかけられた時、みんな散り散りになって逃げていった人たちである。しかしその彼らは、イエスの④復活を経て、まったく別人となって再び現われ、確信をもって教会という共同体をつくった。これを集団的思い込みというには、あまりにも大きな力の働きといわざるをえない(『イエス・キリストは実在したのか?』[レザーアスラン]という本には、川中氏は否定的見解を示す)。

新約聖書の表現では、教会は、もともとキリストによって呼び集められた民の交わりを指す。20世紀になってからは、1962年から65年まで、ローマ法王ヨハネ23世によって、全世界から2000名の司教がサンピエトロに召集され、カトリック教会の刷新について重要な意味をもつ第二バチカン公会議において教会の役割を議論したことは、教会という存在の大きな転換点となった。

教会は、宗教改革のルターのいう「目に見えない」ものであると同時に、はっきりと目に見えるものでもあり、世界の人々に奉仕し、伝承を担うという責務をもって、その実現とたしかな継続のために制度を備えた。

川中氏は言う。
「極論すれば、ナザレのイエスは歴史上にいてもいなくてもいいような小さな存在です。しかし、キリスト教という宗教は、『今も生きているイエス』とのパーソナルにかかわりに支えられています。イエスはたしかに死んだ。でも、死後なお生きている。すべてを失っても自分たちを根本から支えてくれる存在がイエスなのです」

キリストがいて、教会がある。敬虔なクリスチャンが、日曜には教会に行き、神に祈り、感謝を捧げることで、しっかりと自分のよりどころをもっていることは、シンプルで力強いスピリチュアリティそのものかもしれない。

※キリスト教の霊性(spirituality)の基本的定義
「霊性は満たされた真正の宗教生活の探究に関することであり、その宗教に固有な考え方と、その宗教の射程内にあるすべての生の基礎的経験とを共に含んでいる。」
(A.E. マグラス『キリスト教の霊性』p18)
A Basic Definition of “Spirituality”
Spirituality concerns the quest for a fulfilled and authentic religious life, involving the bringing together of the ideas distinctive of that religion and the whole experience of living on the basis of and within the scope of that religion.