「ADDICTION(アディクション)~今日一日を生きる君~」を観て

7月27日、どうしても観たい芝居があって、夕方、代々木上原のIto・M・Studioへと出かけた。駅から坂を上って行くこのスタジオは、演劇研究所を主宰していた故伊藤正次さんの教え子たちが今も表現活動を行う場所だ。前からこの人のことは知っていたが、シュタイナー展で偶然その名を目にして調べたら、内谷正文(うちやまさぶみ)さんのひとり芝居の情報がヒットした。薬物依存症について、個人的体験にもとづいてつくられた劇である。

ADDICTION(アディクション)~今日一日を生きる君~

冒頭、白いシーツをかぶって、ドロドロという太鼓の音をバックに登場した内谷さんは、気味の悪い声を立て、動き回る。白い悪魔のイメージである。少年院から出てきた男の子が、ヤクの売人になり、抜けられなくなった。つかまって改心し、白い粉に溺れる生活に戻ってしまう。

「スリ」という映画で、香川照之が演じた青年もそうだった。原田芳雄演じるベテランのスリが、アル中で指が震え、仕事がうまく行かなくなって断酒会に通う。そこでせっせと会の世話をして、恋人と結婚も決まっていた誠実な青年が、婚約を破棄されたとたん、自暴自棄になって酒を飲み、庖丁を振り回すのだ。どんなに努力をしてもそれが報われなかった時、世間を恨み、やけを起こすことは、依存症でなくても多かれ少なかれ誰にもあることに思え、胸がしめつけられた。

ひとり芝居は、重度の依存症になった弟さんのことを綴ったものだ。家族には、どれほど恐ろしい体験だったことだろうか。内谷さんは、ある時は弟を、ある時は自分を演じ、「こわいよう。死にたくないよう」と気弱になるかと思えば、目を据えてすごんだり、躁状態になったり、脈絡のない人間を演じる。要所要所に現われる白い悪魔に自分を乗っ取られてしまえば、けっして逃がれられない。クスリが切れたら、際限なく求めずにはいられない。

実際、頭の中に住みついた誰かが自分に命令するというのは、よく聞く話だ。摂食障害に苦しむ人も、見えない暴君の命令で食べ吐きを繰り返す。若くきれいで賢そうな女性の悲痛な詩を読んだことがある。なんでこんな賢い人が、こんな底なし沼のようなところへ落ち込んでしまったのか、不思議でならなかった。

〝壊れる〟のは簡単である。
修復するには倍の時間を要する。
自力・自然治癒力で修復できるほど強い人間は、世の中にそう多くはいない。
たいていの人が他人の力を借りる。
その度に、お金が必要となる。
お金を費やしたところで、100パーセント元通りに戻る確証もない。

要するに〝壊れない〟ことである。
〝壊さない〟ことである。
何もかも、全てが変わってしまうから。
何もかも、全てが狂ってしまうから。
自分の性格・人生、そして周囲の人も環境までも。

芝居のあとのトークセッションで聞いた話も、この詩によく似ていた。
もとは快楽を求めて手を出すことが多いが、根底には人間関係の強い葛藤がある。内谷さん自身もそうだったという。ちょうどこの頃クスリでつかまった歌手も、創作上の悩みというよりは、快楽が主であったのではないかとは、内谷さんの推測だが、スポーツ紙の取材を受けてそうコメントしたところ、「『短絡的快楽だけ』とバッサリ」と、大きくニュアンスの異なる記事になった。

発症の原因の4割は処方薬の乱用だという。刑務所に四回入った人の話。一度入ると友達がいなくなる。二度で妻が、三度で親が、四度目で子どもが逃げた。名前を聞いたことがあるだけの薬物依存者の回復施設ダルク(DARC)。全国に70か所あり、月に15万円かかる。親にはその費用負担が重くのしかかる。(刑務所に? 施設に?)入って出ればよりよいルートをもってまた入ってくる。出た奴から情報が入る連鎖反応は断てない。薬物乱用者を取り締まりつかまえる方策はあっても、回復を支援する道筋は不十分である。

回復は1000人にひとり。過去をすべて捨ててゼロから出直すしかない。内谷さんの弟も知らない土地へ移り、幸運にも何とか抜け出すことができた。幻覚も激しく、いろんな人格が頭の中に住みついたらしい。しかし、どう考えても、依存症に陥った人は、特別変わった人でなどない。大きすぎる不安や不信に押しつぶされて、逃げ場を求めた先が悪かった。逆にいえば、身近に助けを求める人間関係をもたなかった。

コミュニケーションは、現代の大問題である。昔のような素朴で単純な人間関係が失われたことで、かつてなかった形の病気が増えている。うつ病も、身近に愚痴をこぼしたり甘えたりできる誰かがいれば、それほど深刻な状態にはならない。人間関係をどうつくればよいかわからず、人と率直に触れ合わず喧嘩もせず、表面だけをとりつくろうことが、タチの悪い病気を生む。

学校で誰とも話さない子ども、mixiではたくさんの友だちがいる。嫌になれば、簡単に関係を切れるからだという。そんな友だちでももっていたいと思う心理は、Facebookの友だち千人を自慢する人と通じる。会って話もしない人が、本当の友だちだろうか。何かを水増しか底上げして生きている限り、依存という問題と完全に無関係の人は、いないかもしれない。

今日を生きるということは、「薬をやらない今日一日を生きる」ということだ。それを一日、一日、ただひたすらこつこつ重ねていく。人は心弱い生き物だから、うっかりまた手を出そうものなら、白い悪魔が手ぐすねひいて待っている。それみたことか、俺から逃がれられると思うなよと、気味の悪い笑い声を響かせ、地の果てまでも追いかけてくる。
白い悪魔から逃げる方法はただひとつだ。

「やるなよ」

内谷さんが若い人に向けて心から語る言葉である。