円覚寺坐禅会 2014年4月4日 「三界無法 何処求心」の講和を聴いて

ある方から教えていただいた座禅会が、歩いていける場所であるというので、1月から円覚寺の白山道場に行くことにした。一時間ほど階下で座ったあと、二階へ上って、般若心経、白隠禅師坐禅和讃、延命十句観音経、延命十句観音和讃、四弘誓願を読み、雪竇禅師(せっちゅうぜんじ)が注釈を加えた「碧巌録(へきがんろく)」から、管長の横田南嶺(なんれい)氏の講和を毎回ひとつずつを聴く。

4月5日は4回目の参加。「三界無法 何処求心(さんがいにほうなし、いずくにか心を求めん)」の対話であった。「三界」とは、仏教にいう欲界、色界、無色界の三つの世界のことで、順に欲望、物質、精神くらいの意味であろうか。そのどれも等しく「無法」つまり、むちゃくちゃであるという意味だそうだ。よって、そんなものにとらわれるなという教えである。

たとえ話がしごくわかりやすい。ある人が肉屋へ買い物に行った。「いいとこの肉をちょうだいな」
言われた肉屋が怒った。「うちの肉はどこをとってもいい肉だ」。部位によっていいとか悪いとかあるはずがないというのだ。このように、物事には、良い悪いの区別もない。

「人の心は巧みな絵師のように、いろんな映像をみせてくれる。同じものを見ていても、人によって見ているものはちがう。新聞だってそうである。株をやっている人にはじっくり読むべき株式情報も、関心のない人には黒いインクのしみでしかない。書評をじっくり読む人、スポーツ欄を読む人、人はそれぞれの関心と欲望に基づいてそれぞれの世界を生きている。だから、人によって、世界は別々であるかもしれない。価値観の違いで離婚というが、価値観が異なるのは当然のことだ」

心理学の本によく「現実は心を映す」とあるのは、まさにこのことである。ハッピーな人はハッピーな世界に住み、文句ばかり言う人は、苦難の世界に住むことになる。心の状態をいつもフラットに、ものごとを明るい方向に考えることがいかにいい人生を招くかということを、実行できるかは別にして、知識として持っている人は多いことだろう。

これで思い出したのが、昨年、国際医療福祉大学の講座で聴講した山田正人氏の話だ。『経産省の山田課長補佐、ただいま育休中』の著書のある山田氏は、同僚の妻との間に双子の子どもがいた。育児はもっぱら妻にまかせ、氏はそれまで通り激務をこなし、夜中に帰るのを常とした。少しは家事を手伝っているとの自覚があったが、妻の意見はちがっていた。三人目を妊娠した妻は、とても育てる自信がない、自分の身がもたぬという。かくなる上は、省ではじめて男性として育児休暇をとろう、とは山田氏の一大決心である。大奮闘の様を楽しく語ってくれた中で、印象に残る言葉があった。

それまで、仕事最優先の氏に、双子はなつかなかった。しかし、これから自分が育児をするようになったら、きっとなつくようになる、と氏は期待していた。ところが、期待以上のことが起こった。「これから自分が育児をやるぞ!」と決めたその瞬間に、それまでそばに寄ってこなかった二人の子が氏になつくようになったというのだ。心が現実を変えるというのはそういうものか、と感心した話であった。人の本気の心が、見込みのない状況に、大きなギフトを引き寄せるという実例である。

「川に糸を垂れる釣り人に、たまには餌をつけずに糸を垂らし、水の音、風の音に耳をすましなさい」と、横田管長は言う。あちこち自分の外に真実を探すよりも、自分の内側に目を向け、そこに求めよ、ということだろう。誰もが自分をもてあまし、大きな不安の闇にいる。しかし、そのままで何も過不足なし。あれこれ対象に振り回されることなかれ。そのような話だった。