ことばとあそんで大きくなれば

少し前、姪の4歳になる息子に、ことばあそびの絵本を送った。谷川俊太郎さんの『ことばあそびうた』は、さすがにむずかしいかと、別の姪に小さい頃あげた『お江戸はやくちことば』を探したが、20年以上も前の本で、新品は手に入らなかった。

『こねこにこにこねどこでねころぶ』の挿絵は、偶然、『お江戸はやくちことば』と同じ藤枝リュウジさんだった。

おちびさんは、はじめあまり気が乗らないように見えたが、語呂やだじゃれの面白さを解するおちび、と踏んだ通り、いまではすらすら、「かなりあかるいとなりのカナリア」「リングにころころころがるりんご」「すっぱいパイナップルいっぱいたべておなかいっぱい」など、可愛い声を張り上げている。

 

あるアメリカ人が、上手な文章を書く人を「耳がいい」と表現したことがある。自分でも黙読の際には必ず耳で聴きながら読んでいて、滞りなく読める文だと内容もすっと入ってくる。この感覚は、小さいときに、音の楽しさやリズムをまず耳から学ぶと身につきやすいと思う。昔読んだ童話集の最終巻が日本の童謡で、期待せずに読み始めたら、見慣れた歌の歌詞だけ読むのが新鮮で、音やリズムの面白さに引きこまれた。日本語の音と言い回しを体に入れておくことは、大人になった時の「耳」、すなわち文章力に大きく影響するようだ。

「目から鼻に抜ける」という表現を四十代の知人が知らず、一寸法師に出てくるのに、と驚いた。昔話には、慣用句を含む豊かな日本語が溢れていて、意味がわからなくても自然と音に慣れ、そのうちにわかるようになる。かつては、子ども向けの本は最も上等なものであるべきと考えられて、丁寧につくられていたし、翻訳物の文章も詩的な美しさに満ちていた。大人になって読み返すと質の高さがよくわかる。子どもは何でも一瞬で覚えてしまうから、あんまり妙ちくりんな絵やことばづかいは、いまの母親たちからも不人気である。

原稿を書き本を編集をする仕事について20年近く経った頃、四十人近い分担執筆の教科書をつくった。内容・品質のバラつきとは別に、あまりにもくだけた文章があって頭を抱えた。著者は海外留学も経験した看護系大学の教授で、四十代。書きことばと話しことばのちがい、フォーマル感の有無など、基本的な日本語のTPOが欠落した文を教科書にそのまま載せることもできず、全面的に書き直した。文の上手下手ではなく、内容が何ともおぼつかない。しっかりした内容の原稿は、おおむねしっかりした文章で書かれていたが、話がうまくても原稿は支離滅裂など、書いてもらってはじめてわかることばかりだった。

最近はSNSの日本語がずいぶんと子どもじみている。Twitterでは、意見のちがいから見知らぬ人どうしが汚いことばでよく喧嘩している。匿名とはいえ、公衆の面前での罵詈雑言は見苦しい。フェイスブックで仲間内のおしゃべりを人目にさらすのは、そういう場として許されるにしても、個人宛てに送られるメルマガが同じトーンだと、つい、昔、流行った「桃尻娘」(注)が思い出され、その文体で時に有償のサービスが大真面目に案内されるのに苦笑する。

自分の気持ちを素直にことばにするのはいいことである。親しげなことばづかいがその人にとっての自然体だと思うのかもしれない。ただ、大人として、相手に言うか言わないか、常にフランク一点張りか、時には多少姿勢を正すかなど、一定の節度があるほうが安心感や信頼感を感じる人は増えるのではないだろうか。人真似のスタイルと桃尻語では、どんなに素敵なサービスを提供してくれても、二の足を踏むというのが正直なところだ。

ことばをためつすがめつしてあそんだ子ども時代の体験があれば、ちょっとしたちがいが大きいことにすぐ気づく。おかしなことばづかいで、賢そうなことを書いている人を見ると、ことばあそびをしなかった人かな、と思う。

 

(注)桃尻娘……70年代に日活で映画化もされた橋本治氏の小説。若い女の子のおしゃべり口調でつづられ、「あたし、〇〇って思うの」「なっちゃう」「〇〇してたんだ」といった文体が、当時斬新な試みとして注目された。