1 「問題」とその「解決」について

人が「問題」に出会う時

このコーナーのタイトルである「問題は解決を求めて現れる」という言葉は、私がこれまで80年以上生きてきた中で、さまざまな人と出会い、考える中で実感し、深い確信をもつにいたった考え方を表しています。

私は、兵庫県の一地方都市で、長年ささやかではありますが、小学生や中学生、高校生を対象に英語や数学を教えてまいりました。そのかたわら、ものごとに取り組む姿勢、やる気、能力の育て方などを研究し、学習とは何か、それがなぜ必要かなどを、ともに考えてきました。そのうちに、子どもさんのご両親をはじめとして、次第に多くの方からの相談を受けるようになりました。

自分自身の生い立ちや生き方の問題も含めて、世の中には実にさまざまな苦難があり、しかも常識では解決できない「難問」があることがわかってきました。そのうちに、どうにかしてそれを乗り越える方法がないものかということを探究するようになりました。

人間とは、どのような存在か、その存在根拠とは何か、数々のすぐれた著作を通じて探究していくと、自然科学、人文科学、哲学、宗教などへの人間のかかわり方などが明らかになってきました。
なかには、学者や文化人ではなく、私と同じごく普通の方々が実践の中で、きわめて重要な指摘をされていることに啓発されたことも少なくありませんでした。もとはといえば、多くの方々からの真剣な相談に応えるために始まった私の探究ですが、そこから生まれてきたアドバイスは、表面的にはいろいろな形をとりながらも、本質的にはすべて同じものに集約されるようになりました。

私の言葉を素直に受け容れて実践された方において、ことごとく事態が変化し、その方を悩ませてきた難問が解決していく様子を、繰り返し目のあたりにするにつけ、相談にみえた方から、自分自身がかえって深く教えられていることを感じました。

常識や因果律では理解できない「解決」の形

「難問」の解決のありようの多くは、とうてい常識的なものではありませんでした。
それまで知らなかった常識を超えた「超常の智慧」とでもよぶべきものに導かれているように思われました。

単純な因果律によって常識的にものごとをとらえる人には、信じがたいことかもしれませんが、それほど不思議なできごとが、現実の世界でごく普通の人たちに起きていることを認めないわけにはいきません。そして、このような問題解決を自分自身で体験され、納得された方たちには、人生や物ごとに対して
それまで考えることができなかった深い視界が開けてきたのではないかと思います。

ちょうどそれは、仏教用語に言うところの「無明(むみょう)」というある種の眠りの状態にいた人たちが、「難問」に遭遇することによって、その存在を大きく揺さぶられ、目覚めさせられたとでもいえるでしょうか。結果的に、その時は苦しみでしかなかった問題が、その人を成長させる貴重なきっかけとなり、人生全体に大きな影響を及ぼすものとなりました。

ここから私は、「問題は解決を求めて現われる」と表現するしかないこと、それゆえ、その問題におそれを抱かず、素直に大きな智慧の法則の中で、自然と事態が落ち着いていくことを信じて、その智慧を実践することの大切さを知ったのです。

私は、一介の無名の人間にすぎません。それでも、日々の体験と、信頼しうる内容の書物を選んで探究することで、人間がどのような存在であるか、さまざまな苦難から解放されるためにどういう方法があるか、などを多方面から考えることができました。

ひとついえることは、その考え方がきわめてシンプルだということです。よって、世に大量に溢れる自己啓発本を読み漁る必要もなくなります。むしろ、自己啓発本には危険な面があるともいえます。人間という存在を根本から問い直すことが、それぞれの人生の意味を大きく変えていくのです。

「問題」を抱えている今の自分が、成長の節目を迎えていることを信じて、このシンプルな法則について、ご一緒に考えていきましょう。