読みにくい文章(3)――pulicationの意味

「専門的な文章が難解なのはやむをえない」と考える人がいる。特別な用語や知識を前提とした文章ゆえそのように感じることもあるが、本当にそうだろうか。

専門用語の多い学術論文でも、日本語としての主語・述語と論理を備えていれば、英文読解と同じで、知らない単語を調べれば、書いてあることの見当くらいはつく。文章の上手い下手とは別に、根気よく読んでいけば、おおよその内容理解はできる。

問題は、いかにもそれらしいフレーズを切ったり貼ったりして、うわべを整えて満足する人のいることだ。個人的なエッセイならそれでもよいが、雑誌や書籍、論文など、公けの場に出る文章でそれを行うことは、著作権という知的な財産の侵害にあたる。研究論文の不正に限らず、その種のことが日常的にみられるのは、書くことがたやすくなり、その意味が驚くほど軽くなったためかもしれない。

昔、医師であり公的な立場の人に依頼した原稿を読んでいたとき、内容に疑問を感じて調べたら、某共済のサイトの引き写しだった。不案内な分野で面倒臭いからといって、なぜその中途半端な内容を「自分の原稿」として提出できたのか、理解できなかった。そういう時こそ、ウェブ上に親切にシェアされた責任をもって書かれた専門家の文献を当たるべきである。大学の研究者の署名入りの論文や役所の資料は、ネット上で山ほど読むことができ、それらを参考にすれば安心して作文できる。

製薬会社の薬効の説明やウィキペディアの解説をコピーしてくる人なども、大学教育を受けたドクターであれば、バレないと決め込んでの故意の愚行である。パクりに気づいてそのまま使えば出版社の責任になるから、こちらで書き直す。書いた人はそもそも内容を覚えていないだろうから、文句を言うこともない。それで原稿料をもらうのだから、いい気なものだ。

何かの拍子に、昔美容学校のテキストに書いた解剖学の原稿を、寸分たがわず「引用」のつもりで書き写した「論文」を発見した。日ごろ使っている教科書の文章を丸々書き写すことに、指導教官ともども何の疑問も抱いていない。この場合、商業的な目的でもなく無知から起きたことであろう。苦労して調べて書いた10頁にわたる原稿と図が納められた論文らしきものを見て、似たようなことを、有名な出版社から何度かされたことを思い出した。著作権は著者にあるとして、ゴーストライター兼編集者には言い分もなかったが、出版社として異を唱えたことはあった。ある時には、先方のライターから無邪気に「活用させていただきました」と丸写しの礼を述べられ、苦笑しつつ「お役に立ててよかったわ」と言ったものである。

一番ひどい例は、有名出版社が、有名教授の有名な教科書の文章を丸々盗用していたことである。その独特の表現を熟読していたために気がついた。編集者のチェックが及ばなかったとしても、書いた著者の愚劣な行動に呆れた。文献の引用について習っているはずのドクターのしたことである。専門家にもひどいのがいるわけだ。ゆえに、専門的な出版物も、そうそう立派とばかりも言いきれない。

読みにくい文章にはいくつかのパターンがある。
第一に、自分が何を書いているかよくわからずに書いているもの。処方箋は、お手本となる文章を読んでそれを真似ること。そして主語と述語を明確にして、自分のわかる範囲で、短めの文で書くことだ。
第二に、自信過剰からか、書いたものが読者に理解されるかどうかに無関心なもの。処方箋は、家族や友人など身近な人に読んでもらって、わかるかどうかや感想を率直に聞くことだ。自覚できれば改善は可能。ただし、よりよくしたいという謙虚さのある人に限られる。
第三が、見かけ上整った原稿の内容にコピーペーストを含むもの。まず、表面的に立派な原稿であっても、盗みを働いたことを自覚すること。さらに、出版(publication)が、「公に発表する」という意味であり、責任を伴う行為であることを肝に銘じることだ。急がば回れで検索の範囲をもう少し広げて、「調べる」練習をすればよい。

ある時、ある人に、本を出版することの意味や、何がいい本か、自分の考えを伝えたことがある。
1)いい本とは、まず、本を読んだ人が、その内容に触れることで新しい知識や物の見方を得たり、心に感じるものがあって、ハッピーになるもの。
2)いい本とは、著者が、その本を書いたことによって、自身も納得し、なおかつ読者の信頼と評価を得て、ハッピーになるもの。
3)いい本とは、出版社が、その本をつくったことによって、読者と著者の両方から信頼と評価を得て、ハッピーになるもの。
4)いい本とは、上記の結果、社会に広く受け入れられることで、繰り返し増刷に至り、関係者に利益をもたらすもの。

もちろんこんなのは理想論にすぎないが、この四つを満たした本を、幸運にもいくつか手がけた。ある有名出版社の社長が、出版界の動向を話し合うシンポジウムで何度も、「出版社はいい本をつくるしかない」と発言したのを耳にするにつけ、背中を押された気分になったのを覚えている。

伝えた相手からこの件についての反応はなく、代わりにきわめて限定された出版物だけを出すという方針を言い渡された。出版方針は出版物の種類とは関係がないから、同じ方針に基づいて制作にあたり、そこでも一定の成果が上がった。やはり内容のいいものを作ることは、編集者にできる最大限の営業努力であるという考えが強くなった。

真摯な書き手は言う。「自分たちの研究や努力によってわかったことを、多くの人にシェアすることで、社会をよりよくする役に立てたい」と。結局のところ原稿の質を決めるものは、「なぜ書くか」という根本の動機と、対価を払って読んでくれる人に対する誠意に尽きる。賢そうなハウツーなどでは、質を上げることはできない。

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2 Responses to 読みにくい文章(3)――pulicationの意味

  1. 國分恵子 says:

    同感!共感!圧巻!・・・。日本人には「神様が見ている」という倫理観がないように思います。人様に倫理をたれるほど立派ではありませんけど、「神様が見ておられる」意識は持ち続けたいですね。そりゃ~、人里離れた、トイレのない所で、尿意を催したらどうするか・・・。「神様はお許しくださる」と思って、草陰で○○しますけど・・・。それにしても「悪人」ているんですね。そんな連中を相手に仕事をしていると心の病になりそうです。わたしも蕁麻疹が治らないです。早く解決したいです。心身をお大事になさってくださいね。

    • 伸枝 says:

      まあ、わざわざコメント恐れ入ります。神様が見ていてくださると思います。ですから、どんなに不器用でも、正々堂々としていたいなと思います。

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