音 緒 じぶんの ねいろを 文字にする

音 緒
ライター別記事一覧
伸枝

 
温故知新の石油化学技術――国立科学博物館産業技術史講座にて

また、石油化学独自の技術以外に、石油化学以前からあった油脂化学や石炭化学の技術を継承していたり、復活させたりしており、途絶したセルロース化学、発酵化学の技術も合流して、現在の高分子製造技術ができているというのは、いかにも化学っぽい現象であり、面白い。

総合医療としての漢方――体内で薬をつくる薬

いわゆる不定愁訴に悩む女性は、従来型の西洋医学では心療内科、精神科、更年期外来など、複数の科を受診するしか手立てがない。すると、別々に処方された薬を同時に飲むポリファーマシー(多剤併用)に陥り、必然的に薬の量が増える。大量の薬を飲むことが、症状改善よりむしろ悪化につながることは、よく指摘される事実である。

「幸せ」を意味するウェルフェア―1

ではその「幸福」の中身はというと、「愛されること、ほめられること、必要とされること、人の役に立つこと」が最低条件だと、後藤先生は言う。説明に配慮が感じられたのは、この「すべての人」に当然介護職も含まれるという言葉だ。訪問した家の人から、「どうもありがとう。また来てね」と言われるときは、幸福の条件である「必要とされ、人の役に立つこと」をヘルパーが実感できる瞬間である。そのひとことが大きな救いとなり、励ましとなり、エネルギーとなる。

峠の時代の〈いのち〉と富の話(2) 清水博氏講演・「親鸞仏教センターのつどい」にて

小さなプランターの中に、内在的世界の共有と充実を見ることができます。豊かに生きるということは、けっしてお金をたくさんもっていることではありません。そのことは、百の言葉より植木鉢をもってきてみんなで観察して話し合えば自然とわかることではないでしょうか。

峠の時代の〈いのち〉と富の話(1) 清水博氏講演・「親鸞仏教センターのつどい」にて

〈いのち〉の居場所には二面構造があることを考えなければなりません。自己の外に存在する外在的世界は、客観的に観察できる科学的な世界です。これは明在的な物質の世界です。しかし、〈いのち〉は、外側の世界にはありません。自己の内部にある内在的世界にあるものが〈いのち〉です。

あるとないとでおおちがい

大きいスイッチはまだいいとして、テレビのリモコンなどボタンの数がやたらと多いものは厄介である。30個を軽く超えるものはざらにあり、見えていても使いこなせない人も多いかもしれない。切り替えボタンなど、大事なものだけわかればいいことにして、少しふくらんだ小さなシールを貼ると、視覚障害の人の役に立つことがわかった。

お宅訪問――同行援助事始め

何年も援助の仕事についている人の話術は、それはみごとなものだった。相槌の打ち方も絶妙なら、相手がストレスに感じていることにも、さりげなく共感して励まし続けているうちに、次第に落ち着きが戻っていく。これがガイドというものか、と、感心するしかなかった。「気がやさしくて力もち」なくらいで対人援助の仕事はつとまりそうもない。明確な技術が必要なのだ。

見えない人と見える人
見えない人と見える人

仮にガイドどうしが顔見知りであったとしても、自分を黒子と認識していれば、ガイドどうしの挨拶はとくに重要ではなく、たとえば目で挨拶するだけで十分である。声を出して挨拶しなければ、利用者がそれを気にすることもない。思わず声を出してしまうことは、いかにもありそうなことではあるが。

アイマスク体験

アイマスクで外に出て、ガイドヘルパーの腕に触れながら、細かく道の様子の説明を受け、一緒に歩いてみた。さきほどの不安は、一転、安心感に変わる。もちろん、ペアを組んだ方がみな実際の援助職についていたために、すぐれた声かけをしてくれたためだが、「ガイド」とは文字通り案内人であることがよくわかる。

言語教育に取り組む現場実践報告を聴いて――獨協大学外国語教育研究所第3回シンポジウムから(2)
言語教育に取り組む現場実践報告を聴いて――獨協大学外国語教育研究所第3回シンポジウムから(2)

松田雪絵氏(埼玉県立伊奈学園総合高等学校)の報告 1.多文化言語共存社会で生きる人材を育てる 伊奈学園総合高等 […]

言語教育に取り組む現場実践報告を聴いて――獨協大学外国語教育研究所第3回シンポジウムから(1)
言語教育に取り組む現場実践報告を聴いて――獨協大学外国語教育研究所第3回シンポジウムから(1)

日本には真のエリートを育てる教育がないといわれる。随分昔、雨後の竹の子のように看護大学が乱立した際も、「教養」 […]

こども時代の病気の意味と予防接種について アントロポゾフィー医学の観点から

しかし、小林先生はこう言われます。
「最も重要な信頼は、子ども自身の『個』への信頼である」と。
「どんな決定にも負の面が存在します。その否定的な作用とバランスをとり、それとともに生きることができるかということです」
難しいことですが、子どもの「個」の強さと成長を信じ、脅されて不安から行う決定をできるだけ遠ざけることが、親に求められる姿勢なのでしょう。

『摂食障害――見る読むクリニック』の出版トークイベント2―質問に答えて

治療を計画的にやることが大切です。見通しがない時に、どこまで家で頑張るかの限界を定め、「このくらいの体重になったら入院して経管栄養」と決めておきます。回復しても次に悪くなったらどうするかもプランを立て、家族で共有しておきます。本人の状態がいい時に本人の意思を尊重して、次に悪くなったらこうする、と決めてサインをさせるようにします。

『摂食障害――見る読むクリニック』出版記念トークイベント1―知ることが薬

内科の治療で大事なポイントは、拒食症の患者さんは、「こわい」ということです。入院したら厳しい治療をされ、できないと責められるのではないかと思っています。頑張りすぎて本人は気がついていませんが、からだが悲鳴を上げています。本には、検査についても、実際に行っている通り書いています。運よく一年くらいで治る方もいますが、16年か17年かけてかかった病気なので、3年から5年くらいは治療に要します。

「ADDICTION(アディクション)~今日一日を生きる君~」を観て
「ADDICTION(アディクション)~今日一日を生きる君~」を観て

〝壊れる〟のは簡単である。
修復するには倍の時間を要する。

キリスト教とスピリチュアリティ―― 日本スピリチュアルケア学会基調講演を聴いて

キリスト教のスピリチュアリティは、二つの中心をもつ。ひとつは、超越的な他者である「キリスト」であり、もうひとつは、共同体としての「教会」だ。キリスト教では、私とあなた(神)がかかわりをもつ。キリストは、パーソナルなかかわりの対象である。同時に、神とかかわりをもつ人は私だけではない。たくさんの人がキリストとパーソナルにかかわりをもち、それらの複数の人が集まって、教会という共通の場を形成する。

スピリチュアルケアと物語――柳田邦夫氏と傾聴

25歳の次男が自ら死を選んだ。遺体を引き取って家に連れ帰り、居間に安置していたときのこと、長男が何気なくリモコンでテレビをつけた。タルコフスキーの映画「サクリファイス」が終わりかけ、マタイ受難曲が流れていた。それは次男が好きな曲だった。彼は無宗教であったが、この不思議な偶然は、大きなものが見守ってくれているという残された者へのメッセージに思われ、大いなるなぐさめとなった。こんなできごとがどれほど人を力づけ、生き直す勇気をくれることか。これが物語のもつ意味である。

錯覚活用法――裏切る「感覚」を逆手に現実を変える

星新一の『味ラジオ』では、ラジオから流れてくる味によって水の味が変わるらしいが、鳴海さんにも、クッキーにチョコの匂いをつけてチョコ味を感じさせる研究がある。聞けば、かき氷のシロップも、味は変わらず、色と匂いの操作でメロン味やイチゴ味になるという。いずれも、味は記憶から引き出され、現実を増幅している。

死は誰のものか――映画「眠れる美女」を観て思うこと(3)

死は、誰かひとりの個人に属するものではない。誰が何を選択してもしなくても、死は、大きなマントのように、かかわる人々を包み込んで同じ場の共有を強いる。「生活の質(Quality of Life:QOL)」と言う言葉を、「人生の本質」と読めば、最期のときをどう終えるかは、QOLに深くかかわる問題である。
完璧な準備でなくても、自分や家族の死という場ができるだけ穏やかなものであるよう、時々は死を身近に考える時間をもつようにしようと思う。

死は誰のものか――映画「眠れる美女」を観て思うこと(2)

こういった宣言は、「事前指示 (advance directive)」とよばれ、よく知られているものに「リビング・ウィル(尊厳死宣言書)」がある。尊厳死協会では、「現代医学では治療が不可能で、既に死期が迫っている場合」と断ったうえで、延命処置をしないこと、必要な苦痛緩和の薬物処置を行うことに加え、「回復不能な植物状態になった時」は、生命維持装置を取り外すことを希望する書式がある。

1 「問題」とその「解決」について

もとはといえば、多くの方々からの真剣な相談に応えるために始まった私の探究ですが、そこから生まれてきたアドバイスは、表面的にはいろいろな形をとりながらも、本質的にはすべて同じものに集約されるようになりました。
私の言葉を素直に受け容れて実践された方において、ことごとく事態が変化し、その方を悩ませてきた難問が解決していく様子を、繰り返し目のあたりにするにつけ、相談にみえた方から、自分自身がかえって深く教えられていることを感じました。

フィンランドの教育としつもん――シンプルに、ちゃんと考える

面白かったのは、小学校の成績評価が一方的ではない点である。教師が緑、黄色、赤の三段階で評価すると同時に、子ども自身が自己評価を行い、すりあわせて最終評価を決定する。この点は、ドイツの子どもたちが、親指を上に向けたり下に向けたりして、自分ができたかできないかを示すのと似ている。子どもは、自分で自分のことを考える機会を与えられる。

円覚寺坐禅会 2014年4月4日 「三界無法 何処求心」の講和を聴いて

人の心は巧みな絵師のように、いろんな映像をみせてくれる。同じものを見ていても、人によって見ているものはちがう。新聞だってそうである。株をやっている人にはじっくり読むべき株式情報も、関心のない人には黒いインクのしみでしかない。書評をじっくり読む人、スポーツ欄を読む人、人はそれぞれの関心と欲望に基づいてそれぞれの世界を生きている。だから、人によって、世界は別々であるかもしれない。価値観の違いで離婚というが、価値観が異なるのは当然のことだ

死は誰のものか――映画「眠れる美女」を観て思うこと(1)

生も死も自分で選べないと言うが、この映画で明確に選んでいるのは、ベッファルドの妻である。この場合、夫という他者の力を借りて生を終わらせた。ここにあるのは、延命治療を拒否する意思である。延命治療とは誰が何のためにするものか。状況は多様でひとことではいえないが、まず、人の生の「終末期」ということを考えなければならない。